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賀陽さん

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徳仁と学習院初等科からの同級生であった、賀陽正憲氏のこと。学習院大学卒業→コクヨ→三井信託銀行→宮内庁(外務省長期出向中)。
賀陽家は旧皇族であり、賀陽宮家は1900年創立。徳仁祖母である香淳皇后の父(久邇宮邦彦王)と邦憲王は兄弟である。

久邇宮朝彦親王 ┬ 久邇宮邦彦王 ― 良子女王(=香淳皇后) ― 今上陛下 ― 徳仁 ― 愛子
        │
        └ 賀陽宮邦憲王 ― 賀陽宮恒憲王 ―章憲王 ― 正憲 ―息子2人

参考:
週刊読売 1988年5月8・15日号<空から拝見 旧宮家の邸宅跡は今も緑がいっぱい>モノクログラビア
週刊読売 1988年5月8・15日号<日本の名家(1)「旧宮家はいま」 賀陽家>記事その2
週刊読売 1988年5月8・15日号<日本の名家(1)「旧宮家はいま」 賀陽家>記事その3

1987年10月24日小和田雅子が東宮御所に招かれ浩宮と歓談した際に同席していたことで、徳仁雅子の婚約内定~結婚当時マスコミに度々登場した人物でもある。なお1987年の当歓談は、約25年後になって友納尚子プリババによって「実はなかった」ことだと完全否定されている点が非常に興味深く、小和田雅子入内についてかなりヤバいポイントであることが容易に推察される。

賀陽正憲氏と雅子の折り合いの悪さはスレ住民奥様方の間でつとに囁かれていたのだが、『週刊現代』2010年6月5日号にて、徳仁が賀陽氏を怒鳴りつけたという記事が掲載されたことで一気に注目を浴びることになった。

学習院高等科時代の浩宮と賀陽正憲氏(飲酒話付き)

小坂部元秀著『浩宮の感情教育』飛鳥新社
pp.68-69より引用
 宮内庁東宮職と学習院中高等科教員チーム「クラブ服部」とのテニスマッチが、浩宮在学中は年に一回東宮御所のコートで開かれた。浩宮はじめ、当時初等科在学中だった礼宮も参加して、土曜の午後を楽しんだ。緑に囲まれたコートからは四谷界隈の高層ビルが別世界のものとして望まれた。東宮職メンバーのテニスのレベルの前に「クラブ服部」のメンバーは完敗することが多かった。
 試合後懇親会があり、ビールなどが出て、浩宮、礼宮も出ていた。
 その席で浩宮が「アーヤは負けそうになると、おこってラケットを放り出すんだから」と笑いながら話していたのが印象に残っている。両者の対比としても面白かったが、浩宮が他の人間に対して思ったことを直截に述べることは珍らしかった(原文ママ)からだ。肉親の弟ということで、リラックスした状況の中では、いかにも人間的な発言――というか、当り前のどこにでもいる兄と弟の間柄をかいま見た瞬間でもあった。礼宮は子供っぽく、しかしちょっと恥しそうに笑っていた。浩宮は二年生ぐらいからは、ビールなどもかなり飲んでいた。
 浩宮の学友として賀屋(原文ママ、59頁でも‘賀屋正憲’と記載)も参加していた。彼は浩宮と並んで観戦したり、東宮職メンバーの一員として浩宮とダブルスを組んだりした。
 彼は懇親会終了後、教員たちとともに四谷へ出て、二次会に流れる教師連に誘われると喜んで付いてきた。居酒屋に入って、末席に座った彼は、おひらきになるまでビールを飲みながら付き合い、にこにこして帰って行った。

1987年10月24日徳仁雅子の東宮御所お茶会に賀陽正憲氏同席、その記事集

『FOCUS』1988年1月1・8日合併号<最強の「浩宮妃候補」登場―東宮に招かれた「女性外交官」>記事
p.5より引用
 '87年4月、ある宮家(高円宮家のこと)で、浩宮様と雅子さんは、この集まり以前に、インド、ネパール、ブータンの旅から帰国した浩宮様を迎えて、ごく内輪の集まりが開かれた。皇族以外の出席者は雅子さんだけだった。
「雅子さん以外に、英国人夫婦が招待されていたが都合で欠席した。浩宮様は自分で写した旅のアルバムを持参して、楽しそうに彼女に旅のエピソードなどを説明していたそうです」(皇室担当記者)
 浩宮様と雅子さんは、この集まり以前に、あるパーティーで既に顔を合わしていた。これ以外にも何度か会う機会があり、宮内庁でも「ある音楽会で、同席されたことはある」と認めている。その上、(補足:1987年の)夏にも雅子さんは東宮御所を訪れ、10月末には浩宮様の親友で、旧宮家出身の賀陽正憲氏が、彼女一人を連れて、東宮を訪れています」(皇室ジャーナリスト河原敏明氏)


『週刊読売』1988年5月8・15日合併号<日本の名家(1)「旧宮家はいま」 賀陽家>記事その2
pp.25-26より引用
賀陽家 治憲氏は外交官、姉は国際教育交流の担い手、甥は浩宮のご学友。親戚に野間一族(講談社)も
皇室ウオッチャーの熱い視線
「女性週刊誌がショーケンを追ってイギリスへ行ったそうだ」
「そのうち侍従になる話は本物らしい」
 今年(補足:1988年)二月末、マスコミ関係者の間にこんな情報が乱れ飛んだ。ショーケンとは、かの萩原健一のことではない。賀陽正憲さんである。浩宮さまのご学友で、現在イギリスに留学中だ。
 ちょうどそのころ、浩宮さまは二十八歳の誕生日会見で、お妃選びの進展状況について「八合目」と発言、にわかに女性外交官・小和田雅子さんが“意中の人”ではないかとクローズアップされた。
 このお二人を引き合わせたのが正憲さん、というのがもっぱらの話である。だから、皇室ウオッチャーが必死に追い回すのだ。
 正憲さんの伯父で、賀陽家当主の治憲さん(六一)は語る。
「皇室関係のことは知らないというほかありません。正直言って本当に知らないのですよ。
 東京・大塚の外務省研修所所長室。中国風の広壮な建物の一室で出迎えた治憲さんっは身長が一メートル八〇を超す。こちらも大人の趣き。低音で柔和な声が響く。
「正憲は口の堅い子ですし・・・・。身内の者が言うのも何ですが、カラッとしたいい性格でハンサムだ。それに世話好きでよく幹事役をしていた。独立心もありましたね。イギリスに行く際には、あちこちで送別会をやってもらった」
 正憲さんは昨年(補足:1987年)十二月渡英。ロンドンから汽車で二時間ばかり行ったバスというところの英語学校で学んでいる。
 治憲さんの周囲が騒がしくなってきたのは、正憲さんの件ばかりでない。前出の小和田さんもしかり。小和田さんの父でOECD特命全権大使の恒さんは後輩だし、小和田さんは教え子である。
 昨年(補足:1987年)一月に所長に就任した治憲さんは
「任地任国に学べ。歯をくいしばってでも学んでこい」
 と、毎年入所してくる六十人余の外交官のタマゴたちにゲキを飛ばす。今年はその中に、小和田さんもいた。
「真の国際人になるためには、まず母国のことを知らなくてはならない」ということで、三月中旬、所長以下みんなで京都、奈良へ旅立った。森閑とした古刹での座禅。所長自ら警策を受けた。
 夜は親睦会。アトラクションの出し物が外国語寸劇というのも外務省らしい。
「今の若い人に思うことは、感受性がすぐれているということです。が、その反面、感受したものを外部へ表明、展開する点で、もう少し積極性が欲しいですね。もっと自己顕示してもいい」
 先輩外交官としての注文である。小和田さんについて水を向けると「特定の研修生については・・・・」とヤンワリ制された。


『毎日グラフ 臨時増刊1993年2月6日号 ロイヤル・ラブ・ストーリー 皇太子さまと小和田雅子さん』
<“6年愛”ストーリー ♥いちずな思い 小和田家の迷い解く♥>
pp.44-45より引用
 皇太子さまが初めて雅子さんとあったのは、86年10月18日、東宮御所(赤坂仮御所)で開かれたスペインのエレナ王女歓迎茶会でのことだ。王女は東京・国立西洋美術館で開かれた「エル・グレコ展」を見学するため来日していた。
 雅子さんは東大在学中で外交官試験に合格した直後。父の恒氏(当時外務省条約局長。現外務次官)と父娘2代の外交官誕生が話題になっていた。
 雅子さんを幼いころから知る外務官僚から、その存在を聞いていた宮内庁が招いたもので、2人は軽く言葉を交わした。
 皇太子さまはこのスーパーレディに一目ぼれしたようである。12月30日に両親と雅子さんを東宮御所に招き、両陛下、皇太子さまが食事を共にした。
 87年4月25日には高円宮邸で会食。皇太子さまは用意していた自分で撮ったネパール、ブータン訪問などの写真(123ページ参照)を雅子さんに見せた。各国王室や皇室の仕事、英国留学時代の思い出、将来について熱く語ったという。
 10月24日には、学友の賀屋(原文ママ、pp.51-54座談会記事では「賀陽」と記載)正憲氏と雅子さんを東宮御所に招いた。(51~54ページ、座談会参照)。皇太子さまは雅子さんに、身を乗り出してアプローチした。
 だが、この年の末、雅子さんがお妃の有力候補として報道され、雅子さん側のガードが一気に堅くなる。そして翌年7月、雅子さんは英国オックスフォード大に留学、9月には英国まで押しかけたテレビの取材に、
「この件につきましてはまったく関係ございませんので、もう取材をしないでください。研修が終われば外務省の職員としてやっていくつもりです」
 と明確に否定し、“圏外”に去ったと思われていた。

賀陽正憲氏ご本人が名出し顔出しで証言する1987年10月24日徳仁・小和田雅子との東宮御所歓談についての記事集

p.9より引用
宮さまが積極的に
 皇太子さまと学習院で初等科から大学まで学友だった賀陽正憲さん(33)の談話
     *     *     *
 あれは4年ほど前。87年秋のことでした。宮さまからお招きをいただいて伺いましたら、ゲストは小和田雅子さんと私。女性がたった1人で招かれていたので、びっくりしました。食事をしたのか、酒をいただいたのか、覚えていないのですが、あの夜の光景はいまも鮮やかに思い出します。それほどに存在感のある方でした。
 大学時代のお話、趣味やスポーツなどを、宮さまと私が小和田さんに質問しながら会話が進んで、はじめはぎこちなかった雰囲気も、2時間、3時間とたつうちにとても楽しいものになりました。小和田さんは一緒にいる人を引き込まずにはいられない魅力のある方です。
 宮さまは英国から帰られて、女性に対する戸惑いがずいぶん消えていたころですが、それにしても、あのようにイキイキと積極的に話される様子を拝見していて、これはかなりお好きなんだなと感じたものでした。
 小和田さんの受け答えは、シャープでいながら誠実味があって、頭の良い方です。目鼻だちがハッキリして美しい方ですが、顔ばかりではなく、たとえば椅子にかける姿勢がとてもキッチリして、風格があります。宮さまのお母さま、皇后さまを彷彿とさせます。
 その後、宮さまから小和田さんのお話が出ることもなく過ぎて、ダメになってしまったのかと思っていましたが、今年の1月3日に御所にあがって宮さまにお目にかかったとき、終始ニコニコとご機嫌で、いま思えばご婚約がまとまったのですから、当然ですね。
 小和田さんとお話を聞いて、「あぁ良かった」と嬉しかった。結局宮さまはベストマッチの人を選んだんだなぁと。
 宮さまは自然体の方です。小和田さんのお話が順調に進んでいない間、宮さまは小和田さんのことだけを思っていたのではないと思います。ご自分の立場をお考えになりながら、気がついたら本当にお好きなのは小和田さんだったということでしょう。歌手の杏里のアルバムにそんな詩があるじゃありませんか。
 小和田さんほど、あらゆる条件がそろっている人はいません。これからは国際化の時代です。皇后という外交官のなかの外交官として活躍される方になりますし、なにより宮さまとさわやかな家庭を築かれることでしょう。


『毎日グラフ臨時増刊 皇太子さまと小和田雅子さん』1993年2月6日ご婚約特別記念号

<恩師・学友が語るお2人の素顔 殿下「オワちゃん」に恋やつれ!?>小坂部元秀さん(皇太子さまの恩師)・岸田泰則さん(雅子さんの恩師)・賀陽正憲さん(皇太子さまの学友)・池田政俊さん(皇太子さまの学友)・前川真広さん(皇太子さまの学友)・伊東晴美さん(雅子さんの同級生)・梅田加奈子さん(雅子さんの同級生)座談会記事
p.52より引用
 ――殿下の「長い春」をお友達が心配して、お見合いの場でも作ってみようかということはあったんでしょうか。
 賀陽 一部のマスコミの方がかなりお騒ぎになっていたからね。ただ、ご結婚はご本人の問題ですから、周りの第三者がワイワイいうというのはいけないことだなと思っていました。だれかいい人がいたら、だれかご紹介できればな、と思っていましたけれども、なかなかいらっしゃるものじゃないんですよね。
 私自身、実は87年10月24日に、小和田さんにお会いしています。当時の東宮御所、いまの赤坂御所ですが、宮さまと小和田さんと私と。私が呼ばれるというのは、ちょっと座を盛り上げなさいという潤滑油的なことで呼ばれたと思うんですけれどもね。こういう素敵な人が世の中にいるんだなと、強い印象が残っています。スーッと人を魅きつけるものをお持ちの方ですね。


『文藝春秋』1993年3月号 皇太子殿下御学友・賀陽正憲<会見に見た宮様の大御心>お祝い寄稿
p.135より引用
「皇太子殿下がお茶会をなさいますので、おいでいただけませんか」
 という連絡が東宮職の侍従の方からあったのは、昭和六十二年の十月でした。
 お茶会というのは、宮様が御所に女性の方をお呼びになって一緒にご歓談されるという会で、私も以前、ご一緒させていただいたことがありました。宮様お一人では、ちょっと気詰まりだし、同窓だった私を同席させて、話をはずませようということだったんでしょう。その時は、女性二人と宮様、そして私という顔触れでした。ですから、これが二回目になります。
「どなたがいらっしゃるんですか」
 と聞くと、
「小和田雅子さんという外務省の方がお一人です」
 ということでしたが、それを聞いて「アレッ」と思ったんですね。というのは、宮様はたいへん慎重な方ですから、女性を一人だけ呼ぶというのは、「これはちょっと特別だな。前回とは違うな」という直感が働いたんです。
 そのお茶会が東宮御所で開かれたのは、昭和六十二年の十月二十四日の土曜日でした。私はその時、雅子さんに初めてお目にかかりましたが、雅子さんは、同じ年頃の女性に比べれば身のこなしにスキがなく、お話のされ方もとても丁寧で、宮様の話にじっと耳を傾けていらっしゃいました。
 宮様も、学生時代に何をやっていたとか、どこに旅行されたとか、いつになく積極的にお話をされていました。
 むしろこの時、雅子さんがあまりに魅力的な方なもので、私がずいぶん口を挟みまして、今になれば宮様には悪いことをしなたと申し訳なく思っているんです(笑)。
 その後すぐに私はイギリスに留学することになり、帰国したのは平成三年の二月ですので、この間、お妃問題についてどのような動きがあったのかはまったく知りません。


学研『ROYAL MOOK 皇室アルバム』vol.10(右、1993年6月15日発行)、vol.11(左、1993年8月5日発行)<素顔の皇太子殿下を語る お二人の呼吸はぴったり 賀陽正憲(談)>記事
(注:vol.10もvol.11も同内容インタビューであるが、vol.11については一部訂正の上再構成している)
vol.10 p.35より引用
 私が小和田雅子さんにお会いしたのは、昭和六十二年十月二十四日の夜でした。侍従を通じてお茶会のお誘いがあったのです。東宮御所に伺うと、お二人おそろいでした。御所に女性一人だけを招くことはなかなかありませんから、私は引き立て役だなとすぐに直感しました。
 その時は留学や趣味のお話など、三時間ほど楽しく語らったのですが、お二人の呼吸がぴったりなのに驚かされました。殿下もとても積極的にお話をしていましたので、殿下のお好きな方なのだなと思ったのです。私はいつも日記をつけていますが、その日は遠慮して一行にとどめました。
雙葉ソフトボール部、六十二年御所、小和田雅子、二十四日土曜日」 それだけです。
 今から考えますと、やはり直感があったのでかえって意図的に書かなかったのでしょう。それ以後、小和田さんにお会いしたことはございませんし、殿下にお尋ねすることもありませんでした。この時の話が、後に虚実入り混じって報道されたものですから、私としては大いに迷惑しました。殿下も小和田さんもさぞ、ご立腹だったことでしょう。しかしながら今般のご婚約の報道に接まして、私自身ようやくという感じがいたします、多くの人に祝福されてよかったなと思っています。
 
vol.11 p.65より引用
 私が雅子さまにお会いしたのは、昭和六十二年十月二十四日の夜でした。侍従を通じてお茶会のお誘いがあったのです。東宮御所に伺うと、お二人おそろいでした。御所に女性一人だけを招くことはなかなかありませんから、私は引き立て役だなとすぐに直感しました。
 その時は留学や趣味のお話など、三時間ほど楽しく語らったのですが、お二人の呼吸がぴったりなのに驚かされました。殿下もとても積極的にお話をしていましたので、殿下のお好きな方なのだなと思ったのです。私はいつも日記をつけていますが、その日は遠慮して一行にとどめました。
雙葉ソフトボール部、六十二年御所、小和田雅子、二十四日土曜日」
 それだけです。今から考えますと、やはり直感があったのでかえって意図的に書かなかったのでしょう。そういうお話は、ふだん私の方からは伺いません。殿下がおっしゃれば別ですが。
 この時の話が、のちに虚実入り混じって報道されたものですから、お二方はお困りになったのではないでしょうか。この時を最後にお二人は三年間ほどお会いしていないのです。ご婚約の報道に接して、ようやくという感じがいたします、多くの人に祝福されてよかったなと思っています。

※下線部分はvol.10とvol.11で記述が異なる箇所。

19930609皇太子さまと雅子さまの歩み(3/4)
友人として徳仁結婚について語る賀陽正憲さん
http://www.youtube.com/watch?v=64ymjhQERvA#t=2m10s

Part2384-627奥様書き込み:1987年10月24日徳仁と小和田雅子の対面の場に同席していた賀陽氏、その扱いが「侍従を通してお茶会のお誘いがあった」→「小和田雅子の案内役」にいつの間にか仕立てあげられる事件

Part2384-627 可愛い奥様 sage 2012/07/05(木) 02:08:48.28 ID:83lluAMK0
>>572
両陛下(当時殿下)は、昭和天皇のご名代として昭和62年10月24日から沖縄を訪問していた。
賀陽さんの同席はその10月24日の夜。つまり、両陛下が不在の東宮御所。
賀陽さんは侍従に呼ばれ途中から参加。

http://www.yuko2ch.net/mako/makok/src/1299273499399.jpg
>私が雅子さまにお会いしたのは、昭和62年10月24日の夜でした。
侍従を通してお茶会のお誘いがあったのです。
>東宮御所に伺うと、お二人おそろいでした。

面白いのが、その先の部分。初掲載と再掲載の文章が異なっている。

変更前
>この時の話が、後に虚実入り交じって報道されたものですから、私としては大いに迷惑しました。
>殿下も小和田さんもさぞ、ご立腹だったことでしょう。

変更後
>この時の話が、のちに虚実入り交じって報道されたものですから、お二人はお困りになったのでは
ないでしょうか。

虚実入り交じった報道はこれら。
http://www.yuko2ch.net/mako/imgbbs3jik/img-box/img20070514183147.jpg
>10月末には、浩宮様の親友で、旧宮家出身の賀陽正憲氏が、彼女一人を連れて、東宮を訪れています。
>(皇室ジャーナリスト河原敏明氏)

http://www.yuko2ch.net/mako/makok/src/1237201258352.jpg
>賀陽氏は、昨年10月、小和田雅子さんが東宮に一人で招かれた時の案内役でもあり、

侍従に呼ばれただけなのに、どこからか情報が漏れ、案内役に仕立て上げられてしまった可愛そうな賀陽さんでした。

週刊文春連載「ザ・プリンセス雅子妃物語」第16回 記者の尾行が始まった by友納尚子が、賀陽正憲氏が同席し後に自らメディアで証言している1987年10月24日徳仁&小和田雅子の東宮御所お茶会をなんと完全否定。賀陽氏が嘘吐きに仕立てあげられることに

pp.40-43より引用
 朝八時過ぎ。目黒区の実家を出て最寄りの東急電鉄目黒線の洗足駅に向かった雅子さん。スカートのスーツ姿に黒のロウヒールで、右手に大きな鞄を持っていた。電車に急いで乗りこんで、大塚にある外務省研修所(文京区大塚・当時)へ向かう。車内で新聞を広げると、一九八七年(昭和六十二年)四月の紙面には、国鉄民営化や解放された三井物産の若王子マニラ支店長のニュースが取り上げられていた。
 そんな雅子さんの姿を隣の車両からずっと見つめる記者がいた。彼は吊革に摑まり、事前に入手した雅子さんのプロフィールを思い浮かべながら、「最有力お妃候補」の様子を窺う。電車は地下鉄丸の内線の茗荷谷駅に滑り込んだ。雅子さんは尾行されていることにまったく気付かない。曇り空の下、新大塚公園の裏手に向かって、ひたすら前を見据え、大股で急いだ。
 高台にある研修所に着いた。江戸時代の大名屋敷のような作りは、住宅地のなかで異彩を放っている。瓦塀は高く、門には飾り細工がほどこされている。記者は研修所に入って行く雅子さんを遠くから見届けた。朝一番の任務を終えて安堵して、溜息をつく。そして、これから始まろうとしている、皇太子妃をめぐるスクープ合戦に、期待と興奮を感じていた――。
 雅子さんは研修所の部屋に入ると、最前列の奥の席に座った。最前列に座るのは、東大時代から変わっていない。午前九時半から始まるカリキュラムは、外務省の機構、国際情勢等の基礎的な知識の習得に係る講義や語学研修だった。
 覚えることは沢山あったが、講師陣の話は魅力的だった。感銘した言葉や初めて知る外交交渉の仕方をメモに取ったという。研修は、昼を挟んで夕方五時四十五分まで続いた。
 研修所を出てくる雅子さんらを待ち受ける別の記者がいた。彼らは決して声を掛けてくることはなかったが、眼光は鋭く、雅子さんが自宅に帰るまでその動向をチェックしていたのだった。
 一ヵ月間の研修も後半に差し掛かってきた。雅子さんの頭の中は、研修で覚えたことを整理するのでいっぱいだったという。父親のさんが外交官であることから、外務省の仕事についてそれなりにイメージはあったが、やはり現実は違う。研修が終わる前に読まなくてはならない専門書や、調べることがたくさんあった。他のことを考えている余裕すらほとんどなかった。
 そんなある日、雅子さんが夕食を済ませてくつろいでいたところに、電話がなった。高円宮家の侍従からだった。母親の優美子さんから雅子さんに電話を代わると、高円宮憲仁・久子ご夫妻がお茶会を開くので、是非とも出席してほしいというものだった。 
 前年十一月の日英協会のパーティで高円宮ご夫妻にお目にかかってから、半年近く。ご夫妻からかけていただいた優しいお言葉やお気遣いは、雅子さんの心に強く残っていたという。だが来月からの本省勤務に向けて、やらなくてはならないことが多くあったため、一瞬ためらった。けれども、本省勤めになればさらに忙しくなって、ご夫妻にお目にかかれることも当分ないかもしれない。そんな思いから、お誘いをお受けすることにしたという。
 高円宮憲仁殿下は、三笠宮崇仁親王の三男で、兄は“髭の殿下”として知られる寛仁親王と桂宮宜仁親王。「皇室(オク)のスポークスマン」を自任され、皇族として初めてテレビ出演をされた。その際、皇室と国民のより良い関係と在り方や新しい時代に対応する皇室づくりについて語られた。また、“職業を持つ皇族”として国際交流基金に勤務され、外務省とも関わりが深かった。
 久子妃殿下は、英国のケンブリッジ大ガートンカレッジを卒業後、翻訳会社にお勤めになった。再渡英され法律を学ばれ帰国してからは、三笠宮の通訳と助手を務めた。カナダ大使館のレセプションパーティで憲仁殿下と出会われ、「Will you marry me?」というプロポーズの言葉に「Yes.」と答えられたことなどで、国際派ともいわれた。
 お二人は高円宮が二十九歳、久子妃が三十一歳でご結婚され三人が女王がいらっしゃる。残念ながら高円宮は二〇〇二年(平成十四年)スカッシュの練習中に倒れ、四十七歳という若さで帰らぬ人となった。
 八七年当時は、ご夫妻はご結婚されてまだ三年目。浩宮とは最も年齢が近く仲も良いことから、皇室の在り方などについて共鳴する部分もあったと言われている。浩宮のお妃選びにもひと役買われて「皇太子妃は雅子さんしかいない」と口に出されるほどだった。
 お茶会が開かれた(補足1987年)四月二十五日土曜日。午後十二時二十分までの研修を終えた雅子さんは、元赤坂の高円宮邸へと向かった。
 到着すると、玄関にお一人で出迎えられたのは浩宮だった。雅子さんは浩宮がいらっしゃることは事前に聞かされていなかったので、とても驚いたといわれている。出席者は当日、キャンセルになった夫妻がいたため四人だけ。
 浩宮は、ネパール、ブータン、インドなど三ヵ国のご旅行から帰国されたばかりだった。自身で撮影された写真のアルバムを用意され、訪れた国の様子や印象に残った話などをされた。
 高円宮は後の会見でこのお茶会について、「殿下にご旅行のお話を聞こうとお招きし、外交官になられた雅子さんとは話題も合うと思って、ご一緒の機会を作りました」と述べられた。
 高円宮ご夫妻は、饒舌だった。主に高円宮と浩宮、久子妃と雅子さんが話したと言われているが、浩宮も社会人となった雅子さんに研修の様子を聞き、ねぎらいの言葉を掛けたという。話は尽きず、その日の雅子さんの帰宅時間は、午前一時を過ぎるほどだった。
 五月、研修を終えた雅子さんの本省勤務が始まった。配属は経済局の国際機関第二課。同課は西側諸国の貿易、開発、エネルギーなど経済政策の協調のための協議機関であるOECD(経済協力開発機構)の窓口。雅子さんは、各国間で調整が難しい環境問題の政策立案に取り組むことになった。
 配属二日目にはさっそく徹夜になってしまい、朝方に帰宅。これから出勤しようとする恆さんと入れ違いになった。以後、たとえ徹夜にならなくても、週に三日は帰宅が午前さまになった。しかし、雅子さんは生き生きとしていた。外交官の仕事を天職と友人らに語り、働く喜びを噛みしめていたのだった。
 OECDの窓口は外務省でも、政策に関係する省庁は多岐にわたる。その調整も雅子さんらの仕事。学生時代の恥ずかしがりやの雅子さんからは想像もできないほど能弁に振る舞う姿も見られた。そんな場面だけを捉えて、「気が強くて、やりこめられた」などといった男性の嫉妬ともいえるコメントが、のちに雑誌に掲載されることもあった。同僚の女性は、
「雅子さまが特別どうということではなく、それが仕事だからです。政策立案というのは、外務省だけでできることではなく、たとえば通産省や環境庁との担当とやり合うことになります。入省したばかりでも与えられた事務処理の仕事だけを行っていればいいというものではなく、法律や協定を読みこなして新たな外交の展望や方針といったものを打ち出さなければなりません。さらには、それを政治家に働きかけて、国の政策に反映させていかなくてはならない。雅子さまだけでなく皆がそうした厳しいやりとりをしていますよ」
 一方で、雅子さんは手が空いたときには率先してお茶汲みをしたり、他省庁のコピーまで取ったりしていた。また多忙の中でも家族の記念日や友人の誕生日を疎かにせず、暇を見てプレゼントを買いに近くに店まで出て、とんぼ帰りをしたりすることもあった。
「雅子さまはとにかく行動的でした。そして、どんなに忙しくても他人への配慮を欠かすことなくプレゼントをしたり、手紙を書いたりしていました。身なりも髪を振り乱したり、化粧をしなかったりといった姿は見たことがありません。いつもきちんとされていました」(同僚)
 こうした証言から浮かび上がるのは、気が強いというより、仕事も人付き合いも生真面目にすべてをこなそうとして、努力を惜しまない雅子さんの姿だった。
 五月に本省勤務が始まった頃、雅子さんが高円宮邸のお茶会に招かれたという情報が漏れ始め、お妃候補の一人としてマークする記者の数は増えていた。
 雅子さんは朝七時過ぎには家を出てしまうことが多く、記者たちの張り込みは深夜に集中した。まるで事件取材のように、物陰に潜んで帰宅を待ったのだった。
 田雙の同級生に電話をかけ、卒業アルバムを貸してほしいという社も増えてきた。もちろん、いざという時の準備である。
「その頃、何人かの同級生に電話があったようですが、お妃候補だからという理由ではなく、外交官になった小和田さんについて取材していると、既に外交官試験に合格した頃、オワは新聞や雑誌に度々出ていたので、また同じようなことなんだろうとためらうこともなくお貸ししたのです。オワにもマスコミにもアルバムを借りに来たことを話しましたが、お妃候補になっているなどとは全く知らなかったと思います」(同級生)
 雅子さんがマスコミで取り上げられてきたことが、結果的に記者たちの取材をスムーズにしていた。
 元朝日新聞・皇室担当記者の岩井克己氏]は、著書「天皇家の宿題」(朝日新書)で次のようなエピソードを紹介している。
<「小和田雅子さん」の名を改めて聞いたのは昭和六二年(一九八七)五月でした。四月二五日に高円宮邸で午前一時まで浩宮と会った女性がいるという聞き込みからでした。七月一六日に外務省経済局国際機関第二課の部屋を訪ねました。入省三ヵ月の彼女は入り口近く、末席の机から立ち上がって、課の応接室に案内して会ってくれました。浩宮と会ったことがなぜわかったのか気にして、やや緊張していましたが、次第にほぐれて、別れ際の屈託ない輝くような笑顔が美しかったのが印象に残っています>
 この頃の雅子さんには、自分が「お妃候補」と目されていることなどぴんとこない話であったろう。何しろ当時、雑誌を中心としたマスコミは、お妃候補と推測される女性の名前を次々と挙げていたのだ。
<北白川尚子サン急浮上! 浩宮妃候補の最新事情「もうここまで絞られた」>(週刊現代/八七年六月二十日号)
<西園寺公望のひ孫と「浩宮妃」との関係>(FRIDAY/八七年七月十七日号)
<浩宮さま最有力お妃候補に三井史子さんが急浮上!!>(女性自身/八七年十一月十・十七日合併号)
「急がれる浩宮妃の条件“有力候補”8人に見る血統と才色><FOCUS/八七年十一月十三日号)
 八月十八日、皇太子ご夫妻(現天皇皇后両陛下)は軽井沢で恒例の記者会見に臨まれた。そのなかで、浩宮の結婚についてこう述べられた。
「結婚問題はいつか具体化する問題ではありますが、そのときには正しくお答えすることができなくなります。したがって、この問題については前にもお話した通り、触れないことにしたいと思います」
 加熱する取材合戦では、様々な情報が飛び交う。この当時も、雅子さんが浩宮に会うため東宮御所に行ったという話が水面下で流れていた。
何人も「お妃候補」が挙げられる中、重要なのは浩宮との接点だ。高円宮邸や浩宮の住まいである東宮御所でも会ったということになれば、確かにただ事ではない。高円宮邸と東宮御所で浩宮が会った女性――雅子さんが最有力候補として注目され続けた裏には、この情報があった。それは次のようなものだった。
 十月二十四日夜、雅子さんは東宮御所に招かれ浩宮と会った。親密に過ごされ、後から浩宮のご学友である賀陽正憲氏が合流したという。賀陽氏は旧皇族賀陽宮家に生まれ、三井信託銀行から東宮侍従となり、その後外務省入りした。
 だがあらためて取材してみると、この「東宮御所訪問」はなかった。
「雅子さまは皇太子殿下からのプロポーズを受けるまでは東宮御所にいったことはなかったのです。当時、お妃候補と言われる女性が他にもいたので、報道が混乱していたのではないでしょうか」(東宮関係者)
 という複数の証言がある。事実は高円宮邸のお茶会以降、浩宮と雅子さんは会っていなかったという。さらに十月二十四日午前には、皇太子ご夫妻が海邦国体ご出席のため、沖縄に向け羽田からご出発されていた。そのご不在中に東宮御所に浩宮が雅子さんを招くことは考えにくい。
 だが、この話は正されることなく後々まで一人歩きした。当時、雑誌や皇室ジャーナリストの情報は混乱していた。
 自民党・竹下登新内閣が発足して一ヵ月、年の瀬も重なって忙しい時間を雅子さんは送っていた。十二月十五日午前八時三十五分、その日はいつもより遅い出勤だった。黒いコートに重そうな黒革の鞄を持っていた。自宅を出て歩いていくと突然、男に「浩宮さまと時々お会いになっていますね」と話し掛けられた。雅子さんは、
「ノーコメントです。私の口から申し上げられることではありません」
 認めたことは「お会いしたといっても(浩宮さまとは)レセプションでお目にかかったぐらいですし……」ということだけだった。
 この取材を含む記事が掲載された「週刊女性」が発売されたのは十二月二十一日。
<浩宮さまお妃候補電撃浮上! 才媛外交官・小和田雅子さん24歳>(八八年一月十四日新春特大号)
 雑誌の表紙にも雅子さんの写真があった。記事ではハーバード、東大、外交官という雅子さんが歩んできた経歴、家族構成などを紹介。「巨人の高田選手のファン」「中学時代にソフトボール部を創設、区大会で優勝」といったエピソードにも触れていた。そして「浩宮さまが、これまであげられた理想の条件をいくつもあわせもつ雅子さん」として、最有力お妃候補であるとの見方を示したのだった。雅子さんが初めて「お妃候補」としてその名を挙げられた記事だった。
(文中敬称略・以下次号)


Part2445-290 可愛い奥様 sage 2012/10/18(木) 10:42:45.24 ID:GK9p1kN90
プリババ
・入省した4月に高円邸に招かれ、土曜の昼過ぎから午前一時まで浩宮と会う。同席は高円夫妻のみ。
・外務省配属後は通産省や環境省の担当とやりあう。「気が強い」というコメントは男性の嫉妬。
・10月にも浩宮は親の外遊中に雅子を御所に呼び賀陽氏も合流という情報があったが、事実でない(と主張)。


298 可愛い奥様 sage 2012/10/18(木) 10:47:40.68 ID:FQdCu2c90
プリ婆物語は既報のエピのうち、
雅子に不都合なものを訂正してまわるのも
目的のひとつだったのね。
ババンの自分ageは既にここでは知られているけど。
今分かったわ。


308 可愛い奥様 sage 2012/10/18(木) 10:51:33.18 ID:GK9p1kN90
>>304
あ、書き落としてました、プリババレポ。
雅子は手が空いた時には、「他省庁の職員のコピーまで取ったりしていた」



400 可愛い奥様 sage 2012/10/18(木) 11:58:08.46 ID:gPKcfAon0
プリババ。もうレポ上がってましたか~w
やはり鬼籍の方が大活躍でしたよ。

雅子さんが自宅で夕食を済ませてくつろいでいたときのこと、小和田家の電話が鳴る。
高円宮家の侍従からだった。
母親の優美子さんから雅子さんに電話を変わると高円宮家でお茶会を開くので是非とも出席して欲しいというものであった。
この当時はご夫妻は御結婚3年目。高円宮は浩宮とは最も年齢が近く仲が良かった。
浩宮のお妃選びにも一役買っていた。
「皇太子妃は雅子さんしかいない」と口に出されるほど。

お茶会が開かれた4月25日土曜日。午前12時20分までの研修を終えた雅子は元赤坂の高円宮邸へと向かった。
到着すると玄関に1人で出迎えていたのは浩宮だった。雅子さんは浩宮がいらっしゃることは事前に
聞かされていなかったのでととても驚いたと言う。

続きますwwwwwww


410 可愛い奥様 sage 2012/10/18(木) 12:05:36.61 ID:p4ZUmJpN0
議論板から転載です
レポ主様ありがとうございます

65 名前:朝まで名無しさん[sage] 投稿日:2012/10/18(木) 09:57:58.52 ID:c/bMcBx9 [1/3]
週刊誌一行レポ。詳細は各自ご確認ください。

週刊文春(2012/10/25),ザ・プリンセス雅子妃物語/記者の尾行が始まった
・尾行するマスコミに気づくことなく研修などに多忙な日々を過ごす小和田雅子さん。
・某日、高円宮家の侍従から茶会に招きたい旨の連絡。饒舌な高窓宮殿下。午前1時過ぎまで、徳仁殿下も。
・お妃候補として名前が活字に。
・10/24、徳仁殿下(賀陽氏も合流)が雅子さんを東宮御所に招いた、とされているが「なかった」。
皇太子両殿下(現 両陛下)不在中に招くなど考えにくく、情報が錯綜したようだ。しかし長く訂正されなかった。
〆は忘れました、済みません


411 可愛い奥様 sage 2012/10/18(木) 12:07:06.71 ID:gPKcfAon0
(続き)
当日出席者はキャンセルになった夫妻がいたので(怪しい…)4人だけ。
浩宮はネパール、ブータン、インド等三か国の旅行から帰って来たばかりで
自身で撮影したア写真のアルバムを用意。高円宮は後の会見でこのお茶会に着いて
「殿下にご旅行のお話を気候とお招きし、外交官になられた雅子さんとは話も合うと思って
ご一緒の機会をつくりました」と述べた。
浩宮は社会人になった雅子に研修の様子を聞き労いの言葉をかけた。
話は尽きず、その日の雅子の帰宅時間は午前一時を過ぎていた。


雅子は外務省では手があいたときには率先してお茶汲み。他省庁の職員のコピー取り。

雅子の身なりは髪を振り乱したり化粧をしなかったりと言った姿は見た事がない。
いつもきちんとしていた(同僚)

こうした証言から浮かび上がるのはキが強いというよりも、仕事も非戸津居合いも生真面目にすべてをこなそうとして努力を惜しまない雅子さんの姿だった(原文ママw)


420 :可愛い奥様:2012/10/18(木) 12:17:14.86 ID:gPKcfAon0
今週のプリババ
雅子が東宮御所訪問はなかった。
「雅子様は皇太子殿下からのプロポーズを受けるまでは東宮御所に行ったことはなかったのです。
当時お妃候補と言われる女性が他にも板野で報道が混乱していたんではないでしょうか(東宮関係者)」
との複数の証言があるそうですw
事実は高円宮邸のお茶会以降は皇太子と雅子さんはあってはいない、と。

ならこの記事は??

http://www.yuko2ch.net/mako/makok/src/1299273499399.jpg
大嘘つき。


429 :可愛い奥様:2012/10/18(木) 12:27:45.67 ID:boK0UwFc0
>>420
あきらかに賀陽さんの手記の方が信憑性が高いよね


430 :可愛い奥様:2012/10/18(木) 12:27:55.01 ID:6PhMTkq90
ホント頭ワルイよね~
だからウソがすぐバレるw


436 可愛い奥様 sage 2012/10/18(木) 12:31:40.65 ID:Qlkr6bau0
87年10月24日に賀陽さんとは会っていない、東宮御所に行っていないって。
のけぞるのはこっちですわ。


437 可愛い奥様 sage 2012/10/18(木) 12:32:59.66 ID:gPKcfAon0
ちなみに東宮御所に賀陽さんと雅子が訪れたのは10月24日の「夜」だそうです。
ちゃちゃっと午前中に両陛下を見送ったあとに夜雅子を招いたのね。
きっと側近があとで今の両陛下のお耳に入れたんだろ。
賀陽さんはムード要員としてのおまけ。


440 可愛い奥様 sage 2012/10/18(木) 12:37:14.38 ID:i2XoUya/0
>>420
こともあろうに、賀陽さんを嘘つきにしてしまったのか!


446 可愛い奥様 sage 2012/10/18(木) 12:40:29.44 ID:gPKcfAon0
>>440
そうなんです。今週のプリババ
この手記も見つけました。きっちり日にちも書いてありましてw

今度は賀陽さんを虚言癖の大嘘つきにしてますよね。
賀陽氏に喧嘩を売ってるとしか。
あとはやはり故人が活躍する回でございました。


450 可愛い奥様 sage 2012/10/18(木) 12:45:17.58 ID:1t16Lo6xO
プリババ物語って実はフィクションなんでは…


452 可愛い奥様 sage 2012/10/18(木) 12:46:59.84 ID:3b7Z9Mab0
>>420
賀陽さんバリバリ存命なのに思いっきり存在を否定されて、これこそ人格否定以外の何物でもないわ。


457 可愛い奥様 sage 2012/10/18(木) 12:51:00.11 ID:gPKcfAon0
プロポーズもされていない雅子がノリノリで夜、東宮御所に訪れてたって事実を
どうしてもないものにしたいんだな。
東宮御所なんて、そんな、殿方の家に夜行くなんて事…神様に誓ってもありません…
って言いたいんだろうと思いました。
でも賀陽さん、可哀想にwwww
嘘つきにされちゃったまんまだw


459 可愛い奥様 sage 2012/10/18(木) 12:53:12.19 ID:i2XoUya/0
>>446
乙です。
いやー、ちょっと信じられないわ…
皇族の血を引く、真っ当な人物を大嘘つきに仕立てるなんて。
>>411 レポ 
>長く訂正されなかった
w。
賀陽さんが2度も書いているんだ、いくらだって自分達側から訂正できただろうが。

この件、どう落とし前をつけるつもりなんだろう?



460 可愛い奥様 sage 2012/10/18(木) 12:53:16.48 ID:gPKcfAon0
よくよく考えてみれば、当時の東宮御所は今の陛下と美智子様のご自宅だったんですよ。
両親が沖縄に朝仕事に行って不在にしているときに、結婚の約束もしていない女を個人的に自宅に招いた浩宮。
とんでもね~やね~wwww


461 可愛い奥様 sage 2012/10/18(木) 12:55:45.08 ID:J6yKI7En0
賀陽さんは「長期静養の前に何かできる公務を」って言って東宮夫妻に嫌われたんじゃなかった?
もうプリ婆としてはなんでしょ
そうやって自分を甘やかしてわがままを聞いてくれない人全部敵認定し続けての現状だと


462 可愛い奥様 sage 2012/10/18(木) 12:59:15.44 ID:3b7Z9Mab0
>>420
>ならこの記事は??
>
>http://www.yuko2ch.net/mako/makok/src/1299273499399.jpg

 私が雅子さまにお会いしたのは、昭和六十二年十月二十四日の夜でした。侍従を通じてお茶会のお誘いがあったのです。
東宮御所に伺うと、お二人おそろいでした。御所に女性一人だけを招くことはなかなかありませんから、私は引き立て役だなとすぐに直感しました。
 その時は留学や趣味のお話など、三時間ほど楽しく語らったのですが、お二人の呼吸がぴったりなのに驚かされました。殿下もとても
積極的にお話をしていましたんおで、殿下のお好きな方なのだなと思ったのです。私はいつも日記をつけていますが、その日は遠慮して一行にとどめました。
雙葉ソフトボール部、六十二年御所、小和田雅子、二十四日土曜日」
 それだけです。今から考えますと、やはり直感があったのでかえって意図的に書かなかったのでしょう。そういうお話は、ふだん私の方からは伺いません。殿下がおっしゃれば別ですが。
 この時の話が、のちに虚実入り混じって報道されたものですから、お二方はお困りになったのではないでしょうか。この時を最後にお二人は
三年間ほどお会いしていないのです。ご婚約の報道に接して、ようやくという感じがいたしますが、多くの人に祝福されてよかったなと思っています。


この日記、友納は焼き捨てたくて仕方ないよね。賀陽さん放火に気を付けて!!!


463 可愛い奥様 sage 2012/10/18(木) 12:59:17.44 ID:gPKcfAon0
プリババ読んで、私個人的な感想なんですけど、この10月24日のお忍びのお楽しみは
浩宮も雅子もあとでこってりしぼられたんだと思いました。
この後この情報をつかんだ雑誌記者から凸され「浩宮さまと時々お会いになっていますね」との
問いに
「ノーコメントです。私の口からは申し上げられることではありません」
というトーンダウンした雅子の返答が書いてあるんですよwwww
それまではノリノリで高円宮邸や両陛下のいない東宮御所に夜出向いてたくせにwww

何なんだこの女w


466 可愛い奥様 sage 2012/10/18(木) 13:01:55.26 ID:gPKcfAon0
>>462
奥様GJ!!!


>私はいつも日記をつけていますが、その日は遠慮して一行にとどめました。
>「雙葉ソフトボール部、六十二年御所、小和田雅子、二十四日土曜日」


wwwwwwwwwwwwwwwwww
雅子陣営はどうしてこんなにすぐバレる嘘をつくんだよ~wwww
もうボケたのかよ~しっかりしろよ~w


469 可愛い奥様 sage 2012/10/18(木) 13:08:01.95 ID:FQdCu2c90
今週号のプリ婆原案担当者はババンか。
脇が甘すぎるw
ジジンは先週、訂正しようのない故人に
ツケを払わせる形で嘘を塗り重ねる、程度の
小細工をしてたなぁ。
なぜ賀陽さんにわざわざ火の子を振りかけるかな。
菊栄親睦会が本気出したら困るだろうに。


829 可愛い奥様 sage 2012/10/18(木) 20:24:47.31 ID:97KROp9S0
>>400、>>410
文春の原文確認したけど友納高円宮家の「侍従」なんて書いてる時点で
無知さらけ出してるね。宮家に侍従はいないもん。いるのは宮務官。

結婚半年後から、夫徳仁の学友との付き合いを避ける雅子、それに同調する徳仁

『噂の真相』1995年10号<天皇家の存在理由が問われる「血の継承」連続線の危機事情 3>
 また、皇太子の学習院時代の学友の一人は、こんな証言をする。
「正直いって、お二人があまりうまくいっていないんじゃないかという印象はあります。結婚当初は御所でお二人とテニスをすると必ず、その後にみんなでお茶やお酒を飲んだりしていたものですが、半年くらいたってからでしょうか、そういった席に雅子さまが顔を出されなくなった。また、我々の一人が殿下もお持ちのマウンテンバイクを雅子さまにプレゼントして、ご一緒にとお誘いしても、ほとんど断わられてしまう。殿下とのご様子を拝見しても、他人行儀というか、なにかギコチないですし。それと、雅子さまは我々のような皇族に近い人物を避けられているかのようです」

『週刊文春』1996年1月18日号<国民が待ち望む'96年最大の慶事 雅子さま「ご懐妊」紀宮さま「ご成婚」>
p.158より引用
 ご結婚生活は今年で丸三年。皇太子殿下のご学友の豊永聡美氏がお二人の様子を語る。
「ご結婚前は花見やテニスや水泳など定期的に行事もあったんですが、ご結婚後はなくなり、御所にお呼びくださることも少なくなりました。お二人だけでいらっしゃる方が楽しいんでしょうね。
 一昨年(=1994年)の秋に最後にお目に掛かった時、雑誌を何冊か殿下と雅子さまに持っていったんです。その中についうっかりして、『夫に先立たれたとき』という特集がまじっていたのですが、雅子さまはそれを殿下にお見せになって『ほらこれ』といって仲良さそうに笑っていらっしゃったのが印象的でした」

2010年5月頃? 徳仁が賀陽氏を怒鳴りつけたという事件

『週刊現代』2010年6月5日号 特別読み物 皇太子も辛いよ――怒りたくなる日もあった
pp.189-190より引用
 思うに任せない公務、改善しない妻の病状、娘の学校でのトラブル……50歳の壮年・皇太子をめぐる状況はストレス因子だらけといっても過言ではない。
 そんな渦中で、最近、東宮職員らの間である「事件」が話題になっている。
 学習院初等科以来数十年に及ぶ皇太子の学友で、現在は宮内庁職員から外務省に出向し、「儀典」(外国の賓客などを接遇する職員)を務める旧皇族・賀陽正憲氏と皇太子の間で、激しい言葉のやり取りがあったというのである。
 賀陽家は昭和22年に皇族から「皇籍離脱」した11家のひとつで、正憲氏は陸軍中将を務めた賀陽宮恒憲王の三男・章憲氏の長男にあたる。
 昭和34年生まれ、皇太子と同学年で、学習院では初等科以来、皇太子とともに学び、親しく交際した。とくに母・美智子皇后の信頼が厚く、高等科時代、皇太子の担任を務めた小坂部元秀氏は著書でこう書いている。
<東宮御所での父母面談の折、美智子妃から、「賀陽さんとは、一生おつき合い願いたいと考えております」という言葉がきかれた>(『浩宮の感情教育』)
 賀陽正憲氏は学習院大学卒業後、文具メーカーのコクヨに就職、その後三井信託銀行に転じたあと、宮内庁入りした。’87年には、東宮御所内で密かに開かれた雅子妃との「お見合い」の場(お茶会)にも同席。一時は、皇太子の妹、紀宮(現黒田清子氏)の「結婚相手」の候補として名前があがったこともある。
 美智子皇后の言葉どおり、皇太子の側近くにあって、「一生おつき合い」する道を歩んでいる側近中の側近なのである。
その賀陽氏に対して、皇太子殿下が、ほかの職員がいる前でかなり厳しいことをおっしゃったというんです。賀陽氏が、とくに大きな失敗をしたということはなく、皇太子殿下が唐突に感情を昂ぶらせたので、賀陽氏自身もかなり驚き、ショックを受けた。それを目にしていた職員たちも、皇太子殿下と賀陽氏がどのくらい深い関係にあるかはよく知っていますから、非常に驚いた」(宮内庁関係者)
 東宮の内情をしる関係者は、皇太子の「怒り」の内容を次のように話す。
東宮(皇太子のこと)は瞬間的に感情を昂ぶらせて、人前にもかかわらず激しい言葉を口にした。あのように温厚な東宮が感情を制御できなくなるのはよほどのこと。
 しかも、周囲はその直接的な原因がわからず、皆戸惑っています。それだけでなく、心のなかのやりきれなさを晴らすかのように、飲酒の量もかなり増えているので、周囲は心配しています」
 ある側近は、
「殿下は、お酒に逃げている……」
 とつぶやいたという。
 前出の宮内庁関係者によると、雅子妃が、皇太子の意見よりも実家である小和田家の意見を優先させているように思えることも、皇太子を悩ませているという。
「一般的に、天皇、皇太子、秋篠宮などのいわゆる内廷皇族が、人前で誰かを困らせるとか、叱るということはありません。そういうことをしてはならないという帝王学を、しっかりと教えられているからです。
 もし指摘されていることが事実であれば、雅子妃のご病気とか、愛子さまの学校のことが原因でしょう。皇太子はこの6年間、大変忍耐強く、努力されてきたが、それがなかなか報われない。そのストレスがあるのでしょう。重い問題ですよ。天皇家の皆さんはとても強いお人柄ですが、それでも耐え難いということならば、本当にお気の毒です」(皇室研究家・高橋紘氏)

当週刊現代記事に対し、野村一成東宮大夫は発売週金曜の定例会見にて「悪意ある中傷であり、講談社に抗議した」と発表したとのこと。


【皇室ウイークリー】(134)「皇太子も辛いよ」週刊誌に宮内庁抗議 両陛下、入所者47人に話しかけられる (1/5ページ)
2010.5.29 06:45
ttp://sankei.jp.msn.com/culture/imperial/100529/imp1005290645001-n1.htm
 宮内庁の野村一成東宮大夫は28日の定例記者会見で、皇太子さまについて取り上げた週刊現代6月5日号の記事に、事実無根の内容が散見されるとして講談社に抗議したことを明らかにした。
 問題の記事は「皇太子も辛いよ」というタイトルで、東宮職は28日付で「皇太子殿下のお人柄や東宮ご一家のご日常に対する悪意ある中傷であると考えます。ここに厳重に抗議致します」とする文書をFAXで送付した。
 野村大夫は事実に反する具体的な例として「皇太子さまと初等科以来のご学友との間で激しい言葉のやりとりがあった」「皇太子さまの飲酒量がかなり増えている」という2つの記述を指摘した。週刊現代編集部は「文書は受け取ったが対応は決まっていない」としている。
・・後略・・


しかし抗議したと言い切っている割には、宮内庁HP「皇室関連報道について」ページに動きが見られず奇妙なことになっている。
当該週刊現代記事発売の翌週には女性自身が後追い記事を出すなど、今後の動きに要注目である。

『女性自身』2010年6月15日号 美智子さま(75) 50年来の旧友に依頼された愛子さま(8)への“癒し”レッスン!
p.44より引用
 ご学友の一人が言う。
「実は最近、私たち同級生の間で、“殿下が同級生を怒ったらしい”ということが話題になり、驚きました。
 皇太子ご一家はこの夏休みに比較的長期の海外ご静養を計画されていたそうですが、現在は外務省に勤めている同級生のA氏もその計画に関わっていたそうです。私が聞いたのは、A氏が『海外ご静養実現をスムーズにするため、事前に雅子さまに何かしらご公務に出席していただきたい』と進言し、殿下が顔色を変えられたという話です
 本誌が同級生のA氏に取材したところ、
「(皇太子さまと私の間で)そういったやりとりはありませんでした」
 と、皇太子さまがお怒りになったことを否定した。
 だが、ある政府関係者によれば、
「2月に東宮職医師団が、雅子さまの病状に関して≪(海外ご訪問は)ご負担が少なく期間も長くない私的なご訪問をまず検討していただくことが望ましく……≫という見解を発表しています。この直後に内閣府と外務省は、皇太子ご夫妻の海外ご静養について詳細な検討を始めたのです。
 皇太子ご夫妻のご要望などもうかがったうえ、①時期は愛子さまがご同行できる夏休み中②行き先は日本の皇室と交流のある王室があるヨーロッパの国……といった大まかなところは決まりつつあったようです。しかし3月に愛子さまの不登校問題が話題になって以降、計画がストップしてしまったのです。
 外務省としては『宮内庁から要請がないと動けない』と主張しているそうで、宮内庁は宮内庁で『愛子さまの登校問題にめどがつくまでは……』という姿勢のようです」
 皇室ジャーナリストの松崎敏弥さんは言う。
「’06年8月のオランダご静養の後、雅子さまのご病状はかなり好転しました。4年ぶりのご一家でのご静養にも、皇太子さまは大きな期待を持たれていたようです。学校問題で傷付かれた愛子さまをお慰めしたいというお気持ちもあったでしょう。
 その計画がストップしてしまったことに、皇太子さまも大きなショックを受けられたと聞いています。
 ままならない状況や、頼りにならない宮内庁にも“忍耐の臨界”を迎えられているのかもしれません」

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