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小和田金吉

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小和田恒の父方祖父であり、現皇太子妃雅子の父方曽祖父である人物。小和田金吉―小和田毅夫小和田恒小和田雅子、と連なる。

『週刊現代』1993年1月30日号<小和田家家系図>

家系図で小和田恒の兄弟姉妹ばかりに誌面を割き、雅子曽祖父・小和田金吉─雅子祖父・小和田毅夫周辺部分が何も記述されていないことに注目

『ご結婚記念 皇太子殿下と雅子さま 「結婚の儀」から武蔵野陵参拝まで THE CROWN PRINCE AND PRINCESS』毎日新聞社1993年7月20日第1刷発行 p.136より<小和田家系図>

原本を見やすくするために、小和田恆の父・小和田毅夫と、母・小和田静と、小和田(旧姓:江頭)優美子の祖先についてそれぞれ色分けし枠囲み処理を加えている。小和田雅子の母方江頭家の記述がやたら細かいのに比し、父方小和田家についてはろくすっぽ情報がないことに注目。

新潟県村上市「市報むらかみ」ご成婚記念特別号より抜粋(平成5年8月発行)小和田家と村上市、小和田家家系図(WebArchive)
ttp://www.k2.dion.ne.jp/~tokiwa/keifu/keifu-owada.html(リンク切れ)

西日本大鑑による小和田氏系図
※一説に小和田金吉は小和田道蔵匡利の三男と伝えるが年代齟齬して審かならず、仮に小和田兵五郎の三男の系に継ぐ。おそらくは別流ならん歟。←つまり「小和田金吉ってのは村上市の小和田本家とは関係ないんじゃねーの?」という主張である。


但し小和田金吉の人物像は不明な点が余りにも多い。名前にしても何となく「きんきち」とは呼び習わされているようだが、「かねきち」なのか「かねよし」なのか、実のところよく分からない。いずれの読みであれ、小和田家が下級武士の出だとの主張にはそぐわない名前である。

小和田雅子が徳仁親王と婚約していた時期の1993年4月17日には、小和田恒・優美子と雅子が新潟県新潟市泉性寺に墓参しているが、その写真に見られる墓石の奇妙さも多くのスレ住民に指摘されている。


この墓については同県村上市西真寺から移したものという説もあるが、西真寺住職の話と大きく食い違う点もあり、今もなお謎に満ちている。墓石が新旧つぎはぎになっているのは、昭和五十五年(1980年)に小和田毅夫氏(=小和田恒の父)がこの泉性寺にある墓の台座だけをより良いものに直したと、『皇太子妃雅子さま』(河原敏明著、講談社1993年4月)に記述がある。
正面墓石画像から「小和田匡利墓」と個人名であることが分かる。墓石側面には「明治七甲戌年 七月二十八日 永代経金一圓」と彫られている。なおこの小和田匡利が何者であるかは新潟県村上市の小和田本家も分からないということで、恒の父方家系は全く辿れないのが現実である。

父方先祖が辿れぬ馬の骨であれ、その子孫が真面目に公務を果たしていれば出自の怪しさなど気にも留められなかっただろう。しかし「遊び過ぎ」皇太子妃の評判が広まるにつけ、「出自の怪しい人間はこれだからやっぱり……」と断じられてもしょうがない状況であり、雅子夫人はその生ける実証となっている。

参考:【小和田毅夫

断片的な情報をつなぎあわせた小和田金吉像まとめ編集

Part1170-80 可愛い奥様 sage 2008/03/23(日) 20:56:42 ID:DUWtBhrv0
>それと不思議なのは金吉は明治17年に鮭名簿に載ってるんだよね
>竹野との結婚生活は2~3年程しかない

小和田金吉と[[毅夫>小和田毅夫]]の関係
明治元年1868年金吉誕生(村上)←誰の子か不明
明治17年1885年(村上)(17歳)村上鮭産育養所の漁業権者名簿(736戸)に載る。
この間、新潟にて吏員、高田税務署の吏員(移動年代不明、歳不明)
明治30年1897年(?)(30歳)熊倉竹野とこの年以前に結婚か←婚姻届の有無不明
明治31年1898年(?)(31歳)長男・毅夫誕生。
明治32年1899年(?)(32歳)竹野実家に戻る←離縁か届の有無不明
明治33年1900年長女・ミヨシ誕生。金吉死亡
大正13年1924年毅夫、上記名簿に名、記載あり。←毅夫、26歳か。

平成リアル横溝ワールド【小和田家の一族】雅子祭祀拒否の謎 ~雅子―恒―毅夫―金吉…その前は不明~編集

・小和田親子が手を合わせている墓の「小和田匡利」って誰?
http://www.yuko2ch.net/mako/imgbbs3jik/img-box/img20071226130438.jpg
・小和田家家系図は「金吉」以前は不明
http://www.yuko2ch.net/mako/imgbbs3jik/img-box/img20070420100835.jpg

1 村上市西真寺住職、本荘長弘師の証言(現在は兵五郎夫妻と道蔵(匡利)の妻とその子供だけの墓がある寺)
 「小和田家の墓について毅夫氏(明治31年生まれ)が新潟市の学校に在勤中、父金吉の墓のみを新潟市の泉性寺に移した」
 「なぜ祖父の妻と子及び曽祖父夫妻の墓を残していったのか。普通移すときはそっくりもっていくものなんですがねえ」
  昭和61年(1986年or1987年)11月 恒・毅夫の両夫妻が村上に来たが、ここに墓参していない。

2 新潟市泉性寺住職、広沢誠師の証言
 「小和田家の墓は明治7年よりうちにあるが金吉と兵五郎の墓はない。匡利(道蔵)の墓だけがあります。…30年くらい前に毅夫さんが父金吉の墓をうちに移したということはまったく知りません」

3 ご成婚前の小和田家の墓参り
  両親と娘が拝んだ墓は新潟市泉性寺にある「匡利(道蔵)の墓」であり「小和田家の墓」ではない
 (昭和55年=1980年に小和田恒の父・毅夫がこの泉性寺にある墓の台座だけを新調した結果、異様なツギハギの墓)

4 小和田金吉と妻竹野(旧姓熊倉)は毅夫が幼い頃別居。金吉死亡後、竹野再婚説と再婚していない説があるが、してないならば竹野の墓は所在不明なまま。
  毅夫は自分の両親の墓参りをしたことがあるのかないのか不明。金吉と竹野の間には、毅夫と妹ミヨシ(結婚後は星野姓)がいる。

5 専門家の意見
 「一説に小和田金吉は小和田道蔵匡利の三男と伝えるも年代齟齬して審かならず、仮に小和田兵五郎の三男の系に継ぐ。おそらくは別流ならん歟」
  金吉が匡利の子なら、匡利が12~13歳の時に生まれた三男となり、有り得ない。一言でいえば「この小和田家ではない」ということ。

6 新潟県村上市小和田本家の証言
  TVインタビューにて老当主が「あちらの小和田家とウチが親戚とは初耳 こちらでもいろいろ調べてみたがわからない」と答えた。

以上の事実から表面化した謎編集

  • a 「金吉の墓」または「小和田家の墓」の所在地が不明なのはなぜ?(毅夫母・竹野が再婚してない場合、彼女の墓の所在も不明)
  • b 毅夫は西真寺から泉性寺に父金吉の墓を移すと寺に言いながら、泉性寺にお墓を作っていないのはなぜ?
  • c 泉性寺の小和田家の墓が「金吉の墓」又は「小和田家の墓」ではなく「匡利(道蔵)の墓」なのはなぜ?
  • d 仮に金吉が小和田兵五郎の三男なら、西真寺に兵五郎の墓を残したままで、恒・毅夫が当地に来ても墓参りしないのはなぜ?
  • e 毅夫氏自身はどの小和田の墓に入ったのだろうか?


2ちゃん書き込み諸説編集

  • 江戸時代、犯罪者予備軍の無宿者は新潟の佐渡ヶ島の金山に送り人足として使役。明治維新で解放されたこの人らの戸籍や墓は?(ご先祖流れ者説)
  • 戸籍を誰かから入手した?戸籍売買?(ご先祖は日本人ではない説)
  • 小和田金吉は認知されていない子だった?(私生児説)→母方から先祖は辿れるはず
  • 宮内庁が小和田雅子の先祖調査をしようとしたら部落解放同盟から抗議された(同和説)
  • 同じ姓の墓をどこかから入手した?(捨て墓置き場から…説)(墓が個人名、石もツギハギで角が欠けている点がポイント)
  • 小和田家が先祖の墓参りをしない家なら、先祖を敬う躾や教育を受けていないので、そのため雅子は祭祀を無意味としか思えないのでは(先祖崇拝無意味説)
  • 雅子妃は祭祀がただ単にメンドクサイだけ説(数日前からの酒断ち肉断ちが耐えられない
  • 雅子妃が祭祀を拒否しているというより皇祖霊の方が雅子妃を拒否しているのでは?理由は…(皇祖霊憤怒説)


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