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天敵

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鎌倉節(元)宮内庁長官のこと。2014年10月30日鎌倉氏の訃報(同月25日逝去、享年84歳)が世に伝えられたが、それを受けて11月6日発売の『女性セブン』11月20日号にて、<皇太子妃雅子さま 天敵死して英紙報道「世捨て人」の汚名晴らす日なるタイトルでその認識があからさまにされた。
鎌倉長官といえば<「国際親善よりお世継ぎ」が持論>by週刊文春11/13号、夫徳仁と食卓すら共にせず、侍医へ基礎体温提出すら拒むほど子供をもうけることに頑固に非協力的だった雅子に対し、「高度な懐妊治療」への牽引役として知られているのだが、スレ住民奥様方からは「世話になった人が亡くなってこんな記事が出されるなんて」とドン引きする声ばかりが上がっている。
たまたまこのトンデモ訃報記事で鎌倉氏が雅子の天敵だと全国的に認定されることになったのだが、他罰感情が著しい雅子にとっての天敵はまだまだ他に大勢いるとお察しされているのが現在である。

1954年警察庁入庁

 ↓
1985年10月第75代警視総監就任(~88年1月)
 ↓
1994年4月宮内庁次長就任
 ↓
1996年1月宮内庁長官就任(~2001年3月)
参考:週刊文春 1996年2月8日号<新宮内庁長官発言で「女帝はない」 雅子さま気になる「お立場」>表紙・目次
   週刊女性 1996年11月19日号<仰天報道をめぐる侃侃諤諤 雅子さまに“身内いじめ”■雅子さまは宮内庁長官?に何度も叱られた」との伊紙報道を徹底検証>表紙・目次


『女性セブン緊急増刊「雅子妃のお気持ち」』2004年、pp.32ー34 森暢平<雅子妃に「海外禁足」を強いた人物>編集

日仏文化交流の拠点となる「パリ日本文化会館」がセーヌ川沿いに建てられ、開館式が'97年5月に開かれることになっていた。日本通のシラク仏大統領は「ぜひ皇太子ご夫妻の訪仏を」と希望し、外務省も動いたが、宮内庁サイドが頑強に反対したのだという。反対の本丸はおそらく鎌倉長官だ。結局、開会式には紀宮さまが出席した。(省略)
翌’99年の「ドイツにおける日本年」にどの皇族が出席するかが宮内庁内部で議論されていた。ドイツ側名誉総裁にヘルツォーク大統領が就任することから、外務省は日本側名誉総裁には皇太子さまが就任することを希望し、ご夫妻のドイツ訪問をも求めてきた。ところが、宮内庁は、皇太子さまの名誉総裁就任までは譲ったが、ドイツ行きにはクビを縦に振らなかった。ドイルでの式典に出席したのは秋篠宮ご夫妻だ。ここでも、皇太子ご夫妻の訪独に反対したのは鎌倉長官だった。(省略)
この(補足:1998年12月の記者会見)少し前ぐらいから、専門医による診察を受けていたといわれている。懐妊を望んでいたのは、何よりもご本人たち(補足:徳仁雅子)であった。
(省略)
ただ、ミレニアム流産のころから、雅子さまの、体調は引き続き万全ではなかった。そして、第一子が期待された男児ではなかったことへの風当たり、公園デビューなど子育てをめぐる重圧…と心労はやむことはなかった。(省略)
愛子さま誕生直後、皇太子さまは、
「1年ぐらい、雅子が育児に専念できるよう検討してくれないか」
と要望したという。
(省略)「育児休業は、働く女性の社会進出にも必要だし、時代の流れだから」というのがご希望の理由だった。
ところが、湯浅長官は、美智子さまが出産のときには8週間で公務に復帰した前例をもとに要求を拒絶したという。(省略)
湯浅長官側の問題も大きい。(省略)「秋篠宮さまに3人目を希望したい」と述べたことは無神経としかいいようがない。(省略)
雅子さまの苦悩は、ほかにも皇室での人間関係があった。宮中晩餐会後のお茶の席を、皇室記者達は、会場の上部にある隠し窓から覗くように取材する。印象にあるのは、紀宮さまと紀子さまは、お客様への対応が一段落すると、決まったように仲良くおしゃべりしていたことだ。けれども、いつのころからか、雅子さまがその輪にはいるのを見なくなった。
また、美智子さま、紀宮さま、紀子さまの3人はたまに御所に集まり、楽しくお菓子づくりをしていたという。しかし、雅子さまが呼ばれることはなかった。(省略)
皇室の女性たちが、雅子さまの「仲間はずれ」を意図したわけではないだろうが、雅子さまとの間には明らかな壁があった。雅子さまは、他の女性皇族と打ち解けられない寂しさに孤独感をいっそう深めていったに違いない。愛子さまの子育て方針をめぐっても、雅子さまは、美智子さまに違和感を持っていた。(省略)
美智子さまが愛子さまを抱く回数も多くはなく、雅子さまは「皇后さまは私たちのことをどうお考えなのだろう」と悩んだという。(省略)
天皇、皇后両陛下のお住まいである皇居に行くたびに(注:雅子さまの)症状が悪くなる傾向があるという。病気の背景には、宮内庁の対応だけでなく、皇室内の人間関係があることの証左のように見える。

『女性セブン』2014年11月20日号<皇太子妃雅子さま(50)天敵死して英紙報道「世捨て人」の汚名晴らす日>編集


友納尚子プリンセス雅子妃物語」から見る、雅子にとっての天敵編集

Part2866-454 可愛い奥様@転載は禁止 sage 2014/11/05(水) 18:59:35.27 ID:JP4+zM460
トモノー先生のプリンセス雅子物語によると
雅子さんの天敵の一部は

両陛下
秋篠宮ご夫妻
ベルモントハイスクールのクラスメイト
オーウェンベーカーとリーサ(ルームメイト)
藤森長官
富田朝彦(藤森長官の前任者)
中川融
湯浅長官
曽我侍従
千代田幹部たち
林田元東宮大夫
坂元先生(医師)
柳谷氏と須之部参与
悪く書くマスコミ
このスレの住民

474 可愛い奥様@転載は禁止 sage 2014/11/05(水) 19:27:43.15 ID:73YjuyYjO
>>454
これだけ天敵認定している人が周囲にたくさんいると生きずらいだろうに。
まして他罰傾向のある性格ならなおさら。
仮に天敵(生理的に合わない)が何人かいたとしても、庶民と違う立場の人が公の場で私情を剥き出しにするのはどうかな。
この方は幼児退行してしまっているの?

堤治東大教授と東宮夫妻との関わり編集

ソースは『噂の真相』2001年6月号等



  • しかしスタート直後、皇太子が坂元医師の説得に「自分たちで計画的にちゃんとやります」と断り(基礎体温提出拒否事件)、せっかくのプロジェクトチームはほどなく解散。堤教授も1998年非常勤医の職を辞する。(1998年秋、不妊検査で異常がなかった雅子が両陛下に向かって「検査の苦しさよりも私が子供を産める身体だと、両陛下にご理解をいただいてほっと致しました」発言事件)


  • ところが1999年5月、堤教授が再び非常勤医として宮内庁病院に復帰。仕掛け人は鎌倉節長官で、支持率低迷に悩む小渕恵三首相と連携する形で99年春から再び東宮夫妻不妊治療プロジェクトを始動。

渋っていた皇太子夫妻もその説得のプレッシャーに耐えられず、夏過ぎには同意。秋に東宮御所内に医療機器が運び込まれ堤教授が検査を始めた。

  • 1999年11月26日頃(ベルギー訪問1週間前)雅子が尿検査で妊娠陽性反応、5週目だと判明するものの、雅子は12月上旬ベルギー王太子結婚式参列&グルメ旅行を強行(→マコオタ画像集(雅子関係)04)。因果関係は不明だが同年12月30日妊娠約7週にて繋留流産手術と宮内庁発表。

流産に終ったあとの2000年1月下旬、堤教授が東大医学部の「体外受精」をテーマにした講義で「体外受精ではけい留流産の可能性が高い。それをどうのこうの言われてもね」と語ったとのこと。記者が同学部の学生から聞いたのだけれど、その学生曰く、「具体的に名前を出したわけではないですが、明らかに雅子妃の流産を指していることがわかりました」

  • 2001年3月には堤治教授が宮内庁御用掛に就任(つまりそれまではあくまで非常勤医「影の主治医」という立場)。鎌倉節宮内庁長官が2001年3月をもって退任。堤教授の弟子に当たる女医・定月みゆき医師も宮内庁東宮御用掛として宮内庁病院産婦人科医長に抜擢。


  • 2001年4月16日雅子に妊娠の兆候ありと宮内庁正式発表、同年12月1日敬宮愛子ちゃん誕生。

2001年12月1日 雅子が女児出産。午後7時45分より宮内庁で記者会見する川口政行東宮侍医長(中央)、堤治東大教授(右から二人目)


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