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小中学校時代に制作する国語課題であり、皇室の中の人の子供時代の考え・性格を興味深く反映しているものである。

書道や筆跡については【マコオタ画像集(その他)】を、絵画・工作作品等については【宮内庁職員組合文化祭】を参照のこと。

小和田雅子編集

1971年東京都目黒区立 原町小学校時代(1971年一年生三学期~二年生一学期始め)の作文「わたしの友だち」編集

   わたしの友だち
わたしの友だちは、田中さんです。きのう田中さんがうちにあそびにきました。
うちで、なわとびをしたり、わなげをしたりして、あそびました。
それで、いけの水をかきまぜて、金ぎょが でてくるか、まっていましたが、でてきませんでした
あとで、バレーボールをしました。たけをふったりしました。それからうらのとをあけて、ぐるぐるまわりました。土をほってかいがらをみつけて、小さなたんすに いれました。

1972年?東京都新宿区立 富久小学校時代(1971年二年生一学期始め~三学期)の作文「雪がっせん」編集

   雪がっせん
                    小和田雅子
 きのう、学校のおく上で 雪がっせんをしました。
 わたしは 中川さんと 大きい玉を 作っていました。そうしたら中川さんが
「男の子たちにこれ、あてちゃおうか。」
と いったので、わたしは、
「そうしよう。」
と いいました。その玉は 長まるで、たては五十センチぐらいで、よこは二十センチぐらいでした。
 わたしたちは、ほっ田くんに あてたのでほっ田くんは びちょぬれになってしまいました。
 わたしは、しかいしがくるかなあと思いましたが、きませんでした。だから、ほっとしました。

東京都新宿区立富久小学校2年生当時の小和田雅子作文画像(原文は縦書き、句読点等全てママ)
字が小学校低学年にしては綺麗過ぎるので先生による清書がされていると考えられている。
しかいし】参照。


田園調布雙葉小学校5年『秋の詩集』より「一日」編集

  一日
カゲロウにとって
一日は一生だ。
なんて短かい一生だろう。
めすは
そんなに短かい時間に
たまごをうむのか。
たまごをうみおえて死んでいく「カゲロウ」
そんな短かい一生を
大切使ってほしい。

田園調布雙葉小学校卒業文集思い出メッセージ「修学旅行の時、四時半まで起きていたのが忘れられない」編集

六年C組 小和田雅子 修学旅行の時、四時半まで起きていたのが忘れられない。おかげで朝、日の出は見られなかったけれど、とても楽しかった!

田園調布雙葉小学校卒業文集寄せ書き「じゅう医さんになりたい ムリカナ?」編集

小学校卒業文集寄せ書き「じゅう医さんになりたい ムリカナ? 小和田雅子」

1976年3月田園調布雙葉小学校卒業文集「クラブ」編集

   「クラブ」          小和田雅子
 
 六年間の思い出といえば 修学旅行、林間学校、遠
足 運動会など たくさんあります。
 でも、とても印象に残ったのは 六年の十一月十四
日のクラブです。私は 五年の時は手芸部で、今年は
生物部です。生物部は、六年四人と五年二人、岸田先
生の、小さいクラブです。
 この日、私たちは、「コジュウケイ」のはくせいを
つくることにしました。その鳥は、学校の窓ガラスに
ぶつかって 死んだのだと先生はおっしゃいました。
 肛門から はさみをいれて お腹の皮をさきます。
その後、肉を切らないようにして 中の肉を取り出し
ます。そのためには 足とつばさを 適当なところから
切らなければなりません。足は、うまくいきました。
つばさも一こできて、残るは つばさ一ことなりまし
た。そこは、先生がなさいました。ところが何という
失敗! 先生は、つばさを切り落としてしまったので
す。あと 頭のところの肉をとれば、肉がとれたのに。
そして かわかしたあと 中身を入れて はくせいが
できたのに…… とても残念!

田園調布雙葉小学校、小和田雅子卒業文集作文画像、枠外に「もてる女はつらいなあ~Ri~n!Ri~n!」とも。
関連エピソード等は【剥製作り】参照のこと。


※なお田園調布雙葉中学校卒業文集では小和田雅子トンデモおふざけ自己&教師陣紹介文が世に知られているが、作文とは性格を異にするためここには取り上げていない。【ダーツ目】の項を参照のこと。

雙葉学園中学校での担任教諭に贈った文集“スキー教室に行く途中に学んだハングル語で“コーマプスムニダ!(ありがとう)”と恩師に感謝の気持ちを綴る”編集

p.170ページより引用
雅子さまを生んだ『雙葉』の教育! 雅子さんの作文の絵“クイーンM”が将来を暗示していた!
・・省略・・
 また中学の卒業文集では、好きな歌を「自分で三味線ひきながら歌うのが最高」と書いたり、担任の先生に贈った文集では、スキー教室に行く途中に学んだハングル語で“コーマプスムニダ!(ありがとう)”と恩師に感謝の気持ちを綴るなど、チャメっけのほうもたっぷりの雅子さまだ。

徳仁(=浩宮)編集

学習院初等科1年生当時の水彩画の下に添えた文「ひまわりさん あなたのおめめはちゃいろですね」編集

1966年11月 学習院祭に出品された浩宮(当時初等科1年)のヒマワリ水彩画

ひまわりさん ひまわりさん ひまわりさん あなたのおめめはちゃいろですね なるひと

学習院初等科1年生当時の作文「ふじ山をみた」編集

『浩宮さま 強く、たくましくとお育てした十年の記録』浜尾実著・PHP研究所(1992年)をソースとする。

  ふじ山をみた  一年 なるひとしんのう
あさ、おきてから、がっこうへいきました。
あそんでいるとき、先生が、
「ふじ山がみえますよ」
とおしえてくださいました。
みんな、かいだんをあがりました。
おくじょうにつきました。
ふじ山が、こくりつきょうぎじょうのわきにみえました。
ぼくは、はじめはくもだとおもいました。先生が、
「ふじ山ですよ」
と教えてくださいました。
ぼくはとてもうれしかったです。
みんな大きな声で、
「ふじ山だあ、ふじ山だあ」
と叫びました。
ぼくあんまりうれしかったのでおくじょうからおっこちそうになりました。

学習院初等科2年生当時の詩「たんきょりきょうそう」編集

『皇太子・美智子さまのご教育法―浩宮、礼宮、紀宮さまにそそがれた豊かな“人間教育”』松崎敏弥著、KKロングセラーズ(1983年)をソースとする。

たんきょりきょうそう
       二年 徳仁親王
パーンと、ピストルがなった。
ぼくのまえの組が走った。
ぼくは、むねがわくわくした。
また、ピストルがなった。
ぼくがとびだしたとき、
ピューッと風がきた。
ぼくは、さっとぼうしをとって、
おもいきり走ったが、
とうとう三とうになってしまった。
でも、きょ年よりはやく走ったので、
とてもうれしかった。
三とうのはたの下で、
大きな声で、ばんざいをした。

1972年3月学習院初等科卒業文集?公害“告発”作文(文面未確認)編集

週刊明星 1972年4月23日号<浩宮さまが公害“告発”の作文>表紙・目次
時期からして初等科卒業文集と推察される内容だが、文面は未確認である。

1972年3月学習院初等科卒業文集より「21世紀からこんにちは 2001年○月○日の手紙」 編集

自分の将来を想像することをテーマとする作文である。

  21世紀からこんにちは 2001年○月○日の手紙  徳仁親王
 みなさん、お元気ですか。わたくしは、今、大学で日本史を教えています。
この間、学生たちに美しい平城京の姿を知ってもらいたいと思い奈良に行って来ました。初めに東大寺などの寺院を見ました。
ふり返ってみれば、私がこの東大寺を訪れたのは、今から三十数年前、たぶん初等科四年のころだったと思います。
幸いに、大仏も四天王も当時と変わらず大切に保存されています。ふくうけんじゃくの美しい姿も変わっていません。
ほっとして外に出れば、若草山、春日山、三笠山などが懐かしい姿を見せています。
それをのぞんでいるとどこからともなく、
天の原ふりさけみれば春日なる三笠の山に出し月かも
という歌が私の耳をかすめ、再び永遠の彼方に消え去っていくような気がしました。
空を見上げれば、雲一つありません。この晴れ渡った空を昔の人はどう思ったのでしょうか。
私はあれやこれやのことを「奈良見物記」という題で本にまとめました。これは余談になりますが、旅先の旅館におりますと、山鳥の声が微妙に悲しげに響いてきます。
夜はマッチ棒をちりばめたような星が光っておりました。自然はいいなあと何度思ったか知れません。
そうしている間についに帰京する日が来ました。古い歴史を語る奈良に私はいつまでも自然や遺跡が保存されることを願ってやみません。
ではみなさま、くれぐれもおからだを大切に、さようなら。

1975年3月学習院中等科卒業文集巻頭メッセージ欄「国家行事以外に、学者としても広く活躍したい」編集

「私×1/5世紀―二十年後の私」という各人一行のメッセージ欄である。
『浩宮の感情教育』小坂部元秀著・飛鳥新社(2001)をソースとする。

国家行事以外に、学者としても広く活躍したい  徳仁親王

1975年3月学習院中等科卒業文集「肝試しと四人の男」編集

「あくび青春期―私生活切取図」をテーマとするものである。全体で400字詰め原稿用紙6枚半程度の分量とのこと。
『浩宮の感情教育』小坂部元秀著・飛鳥新社(2001)をソースとする。

 夏、肝試しをするという話はよく聞く。が、冬、肝試しをするということはあまり聞かない。しかし、それを実行した四人の男がいた。一人はあごの出た男。次に何とはなしにパンダを思わせる愛敬のある男。色が黒く口許がまぐろに似ている男。最後にしょっちゅう腰が痛いと嘆く、じじいくさい男。いずれも年の頃、十四、五歳と思える。この四人が、とある海岸の普段は人っ子一人いない、広い庭のある幽霊屋敷に集まったと考えていただきたい。
・・中略・・
夏の賑いがまるで夢のように、時折り波の音と風が木々の間を吹き抜けていくのが聞こえる。
・・中略・・
 さて、暖かい部屋で夕食を終えた四人の男たちは、めいめい部屋に戻った。ジイが肝試しをやろうと言い出した。パンダとマグロは賛成したが、アゴは
『恐いからいやだ。』
と言って反対した。しかし、多勢に無勢。アゴはおしきられた上、最初の犠牲者に祭り上げられることになった。恐いからいやだ、とは言ったものの、まんざらでもなさそうな顔で応じた。内心は恐いというよりも興味津々たるところもあったのだ。(略)
アゴが最初に驚いたのは、暗闇に浮かぶマグロの変装した姿だった。それもそのはず。普段でさえ黒い顔が、闇に溶け込んで、白い浴衣だけがふわふわと踊っているように見えたからだ。 アゴは、その長いアゴをよけいに長くして、ひっくりかえった。(略)アゴは下駄をはきなおし、おずおずと松林の中に、一歩一歩入っていった。それを、シーツをかぶったジイが懐中電灯を持って、追いかけた。足音を忍ばせて、近づき、気配を悟ったアゴが振り向いたとたん、自分の顔を電燈で照した。
『うわーっ。』と言ってアゴは逃げ出した。紀伊国坂でのっぺら坊を見て、驚いた悟介も、かくあらんと思われるほど、恥も外聞もない叫び声だった。
・・中略・・
今から考えてみると、何であんなことをしたのか、まるでわからないが、四人が揃って楽しい一時を過ごせたことは事実であるとジイは思っている。(略)
二週間後の元旦、ジイの許に、アゴから年賀状が届いた。
それには
『肝試しは、もう御免だよ。』
と書いてあった。

敬宮愛子ちゃん編集

2009年学習院初等科祭展示「■びわのスケッチ / ■毛糸をそめて気がついたこと」 ※「サンゴの海」は作文ではなく教科書文章の書写であるため除外編集

女性セブン 2009年12月17日号<12月1日8歳になられた愛子さまご成長の証 学習院初等科祭で“魔法使い”と達筆をご披露>グラビア、
「サンゴの海」教科書文章書写とびわのスケッチと毛糸を染めた感想書きあり


当時愛子は初等科2年生、同年度3学期にかの不登校発表がなされる。

■びわのスケッチ
[ばしょ] 体いくかんのうら
[はっぱをかんさつして気がついたこと] はっぱのふちがぎざぎざしていた。びわのにおいがした。
[花がさく] 10月~11月ごろ
[実がなる] 6月ごろ
■毛糸をそめて気がついたこと
みょうばんはナポリタンみたいで、色はオレンジ色でした。あくはたらこスパゲッティーみたいで色はピンク色でした。おはぐろはそばみたいで、グレー色でした。

2010年学習院初等科祭、「私たちの別荘」というフレーズで有名になった夏休みの自由研究レポート「那須のとんぼ」編集

『週刊新潮』2010年12月9日号 pp.146-147<見学者がビックリ 学習院初等科祭に見た芸術家・愛子さま>モノクログラビア記事より引用
 11月27日、学習院初等科祭がありました。生徒たちの展示物も数多く、3年南組に所属する敬宮愛子さまの作品には見学者の注目が集まります。書写の授業で書いた愛子さまの字(中央下)。カーニバルに出かけたくなるように作った『へんしんおめん』(右下)に、図画室にある道具をモンスターに変身させた『図画室モンスター』(右上)は全て課題作で、同級生と競います。
 お上手ねえ、力強いわねえ、と見学者たちは感心します。さて第一理科室に移動しますと、そこでは夏休みの自由研究を展示していました。自由なので提出してもしなくてもいいのです。愛子さまは2点、出品しました。『那須のとんぼ』(左上)は10ページ以上にわたって、トンボの種類別に写真と観察によってわかったことを書いています。まず、
私たちの別荘は、標高700メートルにあります」と紹介し、(那須ホームページより)と出典を明らかにします。
「那須の御用邸には12種類のトンボがいます」(那須動植物相より)
 とこちらでも出典を明示。アキアカネという種について、
「オスは秋になると体が赤くなります」
 と説明し、広げたトンボの羽や尻尾のズーム写真を掲載。ミヤマアカネには、
「ミヤマは深山と書きます。ミヤマは深い山に住んでいます」
 もう1点、ぐにゅぐにゅしたおもちゃ『ひかるスライム』(左下)を作り、
「スライムはハサミで切っても元に戻ります」「これからスライムがいつまで使えるか、引き続き見たいと思います。予想 来年の夏ごろまで」
 なかなか優れたレポートで6年生にもひけを取らない作品になっているようです。愛子さまのところには人だかりができ、皆さん手に取って見ます。
「伸びやかなお子様なのねえ」
 でも、最後にこう付け加えることも忘れません。
「どうしてこんなに大らかな字を書くお子様が、いつまでもお母様の付き添いがないと学校に来られないのかしらねえ」
 愛子さま、いまだ登校は雅子妃付きですが、下校時はときおり友達と帰るようです。

2011年度学習院初等科文集『小ざくら』掲載の詩「本当の喜び」編集

『女性自身』2012年4月10日号をソースとする。

  本当の喜び    敬宮愛子
おおなわをした
でもうまく飛べない
みんなはできているのに
私だけできない
すごく心細かった
みんなに申し訳ないような気がする
次の日もおおなわをした
最初はできなかった
でもこつをつかんだのかとべた
とべた!
これが本当の喜びの気がした
達成感があった
明日も
これからも
この喜びを絶対に
忘れたくないな

2014年3月学習院初等科卒業文集『桜愛集』掲載「大きな力を与えてくれた沼津の海」編集

学習院初等科卒業文集は3つのテーマ「思い出」「12才の心」「夢」を設定し、1カ月かけて作文を完成させる国語課題である。
これは「思い出」のテーマによるもの。

  大きな力を与えてくれた沼津の海
       敬宮愛子
 不安な気持ちを抱きつつも、きっと楽しい思い出が作れると言われて出かけた沼津でしたが、初日から練習は厳しく、海に入りたくないと思う時も少なくありませんでした。ただ楽しかったのは、友達との生活と食事、お風呂でした。
 しかし、足の着かない海で泳いで、初めて気持ち良いと感じる日が来ました。三日目に行ったプレ距離泳の時でした。プレの日は、波もなく、太陽が照りつける中での距離泳となりました。海に入るまでは、五百メートルも泳げる訳がないと諦めていましたが、泳いでいるうちに、体の力が抜け、楽しく泳げるようになりました。五百メートルを泳ぎ切ると、海が好きになり、海に入るのが楽しみになっていました。
 迎えた本番の五日目は、潮の流れが少しあり、泳ぎにくいと感じましたが、前日に一キロ泳や二キロ泳を終えた人たちの「頑張れー」という応援の声が聞こえる度に、不思議と力が湧いてきました。無事に泳ぎ切り、みんなと喜びながら頂いた氷砂糖の甘い味は格別でした。
 沼津での生活は、私に諦めないことの大切さを教えてくれ、大きな自信を与えてくれました。沼津の海は、私にとって忘れられない記念の海。六年間の中で、私がいちばん成長できたと感じられる素晴らしい思い出になっています。

2014年3月学習院初等科卒業文集『桜愛集』掲載「動物たちの大切な命」編集

学習院初等科卒業文集は3つのテーマ「思い出」「12才の心」「夢」を設定し、1カ月かけて作文を完成させる国語課題である。
これは「夢」のテーマによるもの。
ソース:女性セブン 2014年4月10日号<愛子さま(12)作文に綴られた「愛犬の教訓」 独占入手 学習院初等科の卒業文集にあった未公開の2作>記事

  動物たちの大切な命
           敬宮愛子
 道徳の授業で、「ペットの命は誰のもの」という番組を見て、私は、年間二十七万頭以上もの犬や猫が保健所などで殺処分されている現実を知りました。動物たちにも命があるのに、なぜ殺されなければいけないのかかわいそうに思いました。
 私の家では、犬を一頭と猫と二頭飼っています。みんな保護された動物です。前に飼っていた二頭の犬も保護された犬でしたが、どのペットも、可愛がって育てたらとても大切な家族の一員になりました。動物がいることで癒されたり、楽しい会話が生まれたりして、人と動物の絆は素晴らしいものだと実感しています。私が飼っている犬は、病院に入院している子供たちを訪問するボランティア活動に参加し、闘病中の子供たちにもとても喜ばれているそうです。
 また、耳の不自由な人を助ける聴導犬や、体に障害のある人を助ける介助犬は、保健所に収容された、飼い主の見つからない犬たちの中から育成されて、障害のある人々の役に立つ素晴らしい仕事をしているそうです。私は、このような人と動物の絆の素晴らしさや、命の大切さを、広く伝えていかれたら良いと思います。そして、犬も猫も殺処分されない世の中の実現に向けて、たくさんの人に動物の良さが理解され、人も動物も大切にされるようになることを願っています。

2014年3月学習院初等科卒業文集『桜愛集』掲載「犬や猫と暮らす楽しみ」編集

学習院初等科卒業文集は3つのテーマ「思い出」「12才の心」「夢」を設定し、1カ月かけて作文を完成させる国語課題である。
これは「12才の心」のテーマによるもの。
ソース:女性セブン 2014年4月10日号<愛子さま(12)作文に綴られた「愛犬の教訓」 独占入手 学習院初等科の卒業文集にあった未公開の2作>記事

  犬や猫と暮らす楽しみ
           敬宮愛子
 私は、飼っている犬と過ごす時が、一日の中で心が和む楽しい時間です。犬や猫は、人間と同じように、一頭一頭顔も性格も違います。この違いが、犬や猫などの動物の魅力でもあり、一緒にいることの楽しみでもあります。
 今私の家には、犬が一頭と猫が二頭います。犬の由莉は、私が二年生の春に保護され、生後二か月半位で私の家に来ました。来て数日で家にも慣れ、元気よく走り回っていたことを覚えています。成犬となった今も、子犬の時と同じように、家族が帰ってくると、しっぽを振りながらおもちゃをくわえて走り回り、喜びを表現しようとしています。
 猫たちは、私が三年生の春に、家の庭で生まれた子猫とその母猫です。元は野猫(注:原文ママ)だったので、慣れるのに時間はかかりましたが、今ではすっかり慣れ、甘えて鳴いたり、なでると目を細めてゴロゴロ言ったりしています。
 犬も猫も、誉めながら教えるとよくしつけができます。特に由莉は、出された指示に従う時には、得意そうに目を輝かせてこちらを見て、とても可愛いです。のミーも、「おすわり」や「お手」ができます。私は、こんな由莉や猫たちが大好きです。そして、由莉たちがいるおかげで、家族の中の楽しい会話がいっそう増えるように感じます。

2014年夏休みに書いたという歴史研究レポート「藤原道長」、優秀作品として文集『小ざくら』に掲載編集

http://jisin.jp/serial/%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E3%82%B9%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%84/imperial/9078
愛子さま 初等科の文集に掲載された“超秀才”レポート
投稿日: 2014年03月18日 00:00 JST
3月18日に学習院初等科を卒業される愛子さま。その4日前、修了式が行われた14日には全校生徒に文集『小ざくら』が配られた。年に1回発行される文集には、作文や詩、工作、自由研究など優秀な作品が選ばれて掲載される。

今回は、夏休みに書かれたという愛子さまの歴史研究レポートが4ページにわたって掲載されていた。タイトルは『藤原道長』――。
藤原道長は平安時代中期に摂政などとして権力をふるった貴族。だが、なぜ道長をテーマに選ばれたのか。愛子さまはレポートにこう書かれている。
《授業で藤原道長について学習している時に、「御堂関白記」に少し触れ、また、学習する前にも新聞で「御堂関白記」がユネスコの記憶遺産に登録されたという記事を見たので、一度実物を見てみたいと思った。それで、夏休みに、東京国立博物館で開催された特別展「和様の書」に行き、「御堂関白記」を見て、これほど古い日記がよく残っているものだと驚いた。そこで、この日記を書いた藤原道長について詳しく知りたいと思い、調べることにした》
このレポートでは、天皇の結婚についても綴られている。
《藤原氏は、自分の娘を天皇のきさきとして、外戚関係を築くことにより、勢力を伸ばしていった。その中でも、藤原道長は4人の娘を天皇と結婚させ、摂政や内覧の座について権力を手中におさめていったことが分かった》
皇室ジャーナリストの松崎敏弥さんは言う。
「内容は非常に論理的で、文章もしっかりされています。昨年秋ごろには、愛子さまの“超秀才ぶり“について複数の週刊誌が報じていますが、まさにそれを裏付けるものですね。
レポート作成には皇太子さまのご指導があったのだと思いますが、参考文献や資料の出典などもきちんと書かれていました。
皇太子ご夫妻は、愛子さまの“皇族教育”にはそれほど積極的ではないのでは、といわれてきました。しかし、実際には愛子さまは、ご自身の置かれた環境や、皇族としての役割について深く考えられるようになられています」
レポートは次のような一文で締めくくられている。
《道長の人生は本当に幸せだったのだろうか》
愛子さまは、皇族としての自覚も芽生え、人間の本当の幸せについても考えるようになられていた。

平成26年(2014年)度版『生徒作品集』掲載、激賞された幻想(ファンタジー)小説“愛子の海の上の診療所”編集

女性自身 2015年12月15日号<愛子さま14歳、オトナ女子!?-おしゃれ心が胸元にキラリ ◆愛子内親王、雅子妃 / 祝14歳 愛子さま激賞された幻想小説“愛子の海の上の診療所”全文掲載 ◆愛子内親王、美智子皇后、雅子妃、国際児童図書評議会>表紙
女性自身 2015年12月15日号<“読書好き”美智子さま(81)の大きな本棚に創作意欲をかきたてられ――激賞された幻想短篇小説“愛子の海の上の診療所”全文掲載>記事
女性自身 2015年12月15日号<愛子さまが書かれた物語『生徒作品集』(平成26年度版)より>愛子作文全文

皇室御一行様★part3042 [転載禁止]©2ch.net
http://hello.2ch.net/test/read.cgi/ms/1448975178/273-

 私は看護師の愛子。最近ようやくこの診療所にも患者さんが多く訪れるようになり、今日の診療も外が暗くなるまでかかった。先生も先に帰り、私は片付けと戸締りを任されて、一人で奥の待合室と手前の受付とを行き来していた。
 午後八時頃だろうか。私は待合室のソファーでつい居眠りをしてしまった。翌朝眩しい太陽の光で目が覚め、私は飛び起きた。急いで片付けを済ませて家に帰ろうと扉をガラッと開けると、思わず落っこちそうになった。目の前には真っ青な海が果てしなく広がっていたのだ。  診療所は、一晩でどの程くらい流されたのだろうか? いや、町が大きな海へと姿を買えてしまったのかもしれない。助けを呼ぼうとしたが、電話もつながらない。私は途方に暮れてしまった。
 あくる朝、私は誰かが扉をたたく音で目を覚ました。扉の外には片足を怪我した真っ白なカモメが1羽、今にも潮に流されてしまいそうになって浮かんでいた。私はカモメを一生懸命に手当した。その甲斐あってか、カモメは翌日元気に、真っ青な大空へ真っ白な羽をいっぱいに広げて飛び立って行ったのであった。
 それから怪我をした海の生き物たちが、次々と愛子の診療所へやってくるようになった。私は獣医の資格は持っていないながらも、やって来た動物たちに精一杯の看護をし、ときには魚の骨がひっかかって苦しんでいるペンギンを助けてやったりもした。愛子の名は海中に知れ渡り、私は海の生き物たちの生きる活力となっていったのである。そう。愛子の診療所は、正に海の上の診療所となったのだ。
 今日も愛子はどんどんやって来る患者を精一杯看病し、沢山の勇気と希望を与えていることだろう。

文章前半は一人称「私」で書かれていたのに、後半は「愛子」に変容している点、
「扉をガラッと開ける」現在のあまり物音が立たない医療施設の横開き扉にはそぐわない昭和臭漂う古めかしい表現等々、
獣医が小学生時代の夢だった雅子が娘愛子に自己投影して書いた文章?ww」という感想が多い作文である。


学習院女子中等科『ビルマの竪琴』感想文(文面未確認)編集

http://www.asahi.com/articles/ASH8S3F2FH8SUTIL00D.html
(皇族方の素顔)両陛下の平和への願い、次世代へ
宮内庁担当 伊藤和也、島康彦
2015年8月27日11時26分
抜粋
雅子さまが、愛子さまが学習院女子中等科学校の宿題で、ビルマ戦線の日本兵を描いた「ビルマの竪琴」について読書感想文を書いたことも明かしたそうです。


2017年3月学習院女子中等科卒業文集掲載「世界の平和を願って」編集

空の書き出しといい文体といい、友納尚子臭が甚だしい文章である。プリババ文体と比較されたい。

ttp://www.ji ji.com/jc/article?k=2017032200482&g=soc (archive.is記録
「世界の平和を願って」=愛子さまの卒業文集公表-宮内庁
 宮内庁は22日、皇太子ご夫妻の長女愛子さま(15)が学習院女子中等科を卒業されるのに合わせ、愛子さまが卒業記念文集に寄せた作文を公表した。「世界の平和を願って」との題で、昨年5月の修学旅行で広島市を訪れた際に感じたことや、平和への思いがつづられている。
 全文は次の通り(表記は原文通り)。

 世界の平和を願って 敬宮 愛子
 卒業をひかえた冬の朝、急ぎ足で学校の門をくぐり、ふと空を見上げた。雲一つない澄み渡った空がそこにあった。家族に見守られ、毎日学校で学べること、友達が待っていてくれること…なんて幸せなのだろう。なんて平和なのだろう。青い空を見て、そんなことを心の中でつぶやいた。このように私の意識が大きく変わったのは、中三の五月に修学旅行で広島を訪れてからである。
 原爆ドームを目の前にした私は、突然足が動かなくなった。まるで、七十一年前の八月六日、その日その場に自分がいるように思えた。ドーム型の鉄骨と外壁の一部だけが今も残っている原爆ドーム。写真で見たことはあったが、ここまで悲惨な状態であることに衝撃を受けた。平和記念資料館には、焼け焦げた姿で亡くなっている子供が抱えていたお弁当箱、熱線や放射能による人体への被害、後遺症など様々な展示があった。これが実際に起きたことなのか、と私は目を疑った。平常心で見ることはできなかった。そして、何よりも、原爆が何十万人という人の命を奪ったことに、怒りと悲しみを覚えた。命が助かっても、家族を失い、支えてくれる人も失い、生きていく希望も失い、人々はどのような気持ちで毎日を過ごしていたのだろうか。私には想像もつかなかった。
 最初に七十一年前の八月六日に自分がいるように思えたのは、被害にあった人々の苦しみ、無念さが伝わってきたからに違いない。これは、本当に原爆が落ちた場所を実際に見なければ感じることのできない貴重な体験であった。
 その二週間後、アメリカのオバマ大統領も広島を訪問され、「共に、平和を広め、核兵器のない世界を追求する勇気を持とう」と説いた。オバマ大統領は、自らの手で折った二羽の折り鶴に、その思いを込めて、平和記念資料館にそっと置いていかれたそうだ。私たちも皆で折ってつなげた千羽鶴を手向けた。私たちの千羽鶴の他、この地を訪れた多くの人々が捧げた千羽鶴、世界中から届けられた千羽鶴、沢山の折り鶴を見たときに、皆の思いは一つであることに改めて気づかされた。
 平和記念公園の中で、ずっと燃え続けている「平和の灯」。これには、核兵器が地球上から姿を消す日まで燃やし続けようという願いが込められている。この灯は、平和のシンボルとして様々な行事で採火されている。原爆死没者慰霊碑の前に立ったとき、平和の灯の向こうに原爆ドームが見えた。間近で見た悲惨な原爆ドームとは違って、皆の深い願いや思いがアーチの中に包まれ、原爆ドームが守られているように思われた。「平和とは何か」ということを考える原点がここにあった。
 平和を願わない人はいない。だから、私たちは度々「平和」「平和」と口に出して言う。しかし、世界の平和の実現は容易ではない。今でも世界の各地で紛争に苦しむ人々が大勢いる。では、どうやって平和を実現したらよいのだろうか。
 何気なく見た青い空。しかし、空が青いのは当たり前ではない。毎日不自由なく生活ができること、争いごとなく安心して暮らせることも、当たり前だと思ってはいけない。なぜなら、戦時中の人々は、それが当たり前にできなかったのだから。日常の生活の一つひとつ、他の人からの親切一つひとつに感謝し、他の人を思いやるところから「平和」は始まるのではないだろうか。  そして、唯一の被爆国に生まれた私たち日本人は、自分の目で見て、感じたことを世界に広く発信していく必要があると思う。「平和」は、人任せにするのではなく、一人ひとりの思いや責任ある行動で築きあげていくものだから。
 「平和」についてさらに考えを深めたいときには、また広島を訪れたい。きっと答えの手がかりが何か見つかるだろう。そして、いつか、そう遠くない将来に、核兵器のない世の中が実現し、広島の「平和の灯」の灯が消されることを心から願っている。(2017/03/22-11:07)

NHKまでもが卒業当日わざわざ愛子作文全文紹介という露骨なプロパガンダぶりww

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170322/k10010920101000.html (WebArchive記録archive.is記録
【全文】愛子さま 卒業文集に平和への思い記す
3月22日 12時28分
愛子さまは、学習院女子中等科の卒業文集で、「世界の平和を願って」と題して、去年、修学旅行で広島市の平和公園を訪れた経験をもとに「平和」への思いを記されました。
この中で、愛子さまは、「原爆ドームを目の前にした私は、突然足が動かなくなった。まるで、71年前の8月6日、その日その場に自分がいるように思えた」と当時の心境を明かしたうえで、「原爆が何十万人という人の命を奪ったことに、怒りと悲しみを覚えた」と振り返られました。
一方で、愛子さまは、原爆慰霊碑の前から、「平和の灯(ともしび)」の向こうに原爆ドームが見えた際、「間近で見た悲惨な原爆ドームとは違って、皆の深い願いや思いがアーチの中に包まれ、原爆ドームが守られているように思われた。「平和とは何か」ということを考える原点がここにあった」と記されました。
そして、「唯一の被爆国に生まれた私たち日本人は、自分の目で見て、感じたことを世界に広く発信していく必要があると思う。『平和』は、人任せにするのではなく、一人ひとりの思いや責任ある行動で築きあげていくものだから」とまとめられました。
世界の平和を願って 敬宮 愛子
 卒業をひかえた冬の朝、急ぎ足で学校の門をくぐり、ふと空を見上げた。雲一つない澄み渡った空がそこにあった。家族に見守られ、毎日学校で学べること、友達が待っていてくれること…なんて幸せなのだろう。なんて平和なのだろう。青い空を見て、そんなことを心の中でつぶやいた。このように私の意識が大きく変わったのは、中3の5月に修学旅行で広島を訪れてからである。
 原爆ドームを目の前にした私は、突然足が動かなくなった。まるで、71年前の8月6日、その日その場に自分がいるように思えた。ドーム型の鉄骨と外壁の一部だけが今も残っている原爆ドーム。写真で見たことはあったが、ここまで悲惨な状態であることに衝撃を受けた。平和記念資料館には、焼け焦げた姿で亡くなっている子供が抱えていたお弁当箱、熱線や放射能による人体への被害、後遺症など様々な展示があった。これが実際に起きたことなのか、と私は目を疑った。平常心で見ることはできなかった。そして、何よりも、原爆が何十万人という人の命を奪ったことに、怒りと悲しみを覚えた。命が助かっても、家族を失い、支えてくれる人も失い、生きていく希望も失い、人々はどのような気持ちで毎日を過ごしていたのだろうか。私には想像もつかなかった。
 最初に71年前の8月6日に自分がいるように思えたのは、被害にあった人々の苦しみ、無念さが伝わってきたからに違いない。これは、本当に原爆が落ちた場所を実際に見なければ感じることのできない貴重な体験であった。
 その2週間後、アメリカのオバマ大統領も広島を訪問され、「共に、平和を広め、核兵器のない世界を追求する勇気を持とう」と説いた。オバマ大統領は、自らの手で折った2羽の折り鶴に、その思いを込めて、平和記念資料館にそっと置いていかれたそうだ。私たちも皆で折ってつなげた千羽鶴を手向けた。私たちの千羽鶴の他、この地を訪れた多くの人々が捧げた千羽鶴、世界中から届けられた千羽鶴、沢山の折り鶴を見たときに、皆の思いは一つであることに改めて気づかされた。
 平和記念公園の中で、ずっと燃え続けている「平和の灯」。これには、核兵器が地球上から姿を消す日まで燃やし続けようという願いが込められている。この灯は、平和のシンボルとして様々な行事で採火されている。原爆死没者慰霊碑の前に立ったとき、平和の灯の向こうに原爆ドームが見えた。間近で見た悲惨な原爆ドームとは違って、皆の深い願いや思いがアーチの中に包まれ、原爆ドームが守られているように思われた。「平和とは何か」ということを考える原点がここにあった。
 平和を願わない人はいない。だから、私たちは度々「平和」「平和」と口に出して言う。しかし、世界の平和の実現は容易ではない。今でも世界の各地で紛争に苦しむ人々が大勢いる。では、どうやって平和を実現したらよいのだろうか。
 何気なく見た青い空。しかし、空が青いのは当たり前ではない。毎日不自由なく生活ができること、争いごとなく安心して暮らせることも、当たり前だと思ってはいけない。なぜなら、戦時中の人々は、それが当たり前にできなかったのだから。日常の生活の一つひとつ、他の人からの親切一つひとつに感謝し、他の人を思いやるところから「平和」は始まるのではないだろうか。
 そして、唯一の被爆国に生まれた私たち日本人は、自分の目で見て、感じたことを世界に広く発信していく必要があると思う。「平和」は、人任せにするのではなく、一人ひとりの思いや責任ある行動で築きあげていくものだから。
 「平和」についてさらに考えを深めたいときには、また広島を訪れたい。きっと答えの手がかりが何か見つかるだろう。そして、いつか、そう遠くない将来に、核兵器のない世の中が実現し、広島の「平和の灯」の灯が消されることを心から願っている。

テレビ朝日「報道ステーション」も愛子作文全文読み上げ&字幕スーパーで紹介、これは予想の範囲内

http://news.tv-asahi.co.jp/news_society/articles/000097009.html
http://www.dosuko.com/bbs/img/1490402981.jpg (キャプチャ連結画像)
【報ステ】「世界平和」願い…愛子さま中学卒業(2017/03/22 23:30)
 皇太子ご夫妻の長女・愛子さまが中学校を卒業された。卒業式には、皇太子ご夫妻とともに出席された。卒業にあたり、愛子さまは『世界の平和を願って』と題した作文を書かれた。去年5月に修学旅行で訪れた広島の原爆ドームについて「目の前にした私は、突然足が動かなくなった」「まるで、71年前の8月6日、その日その場に自分がいるように思えた」と当時の心境をつづられた。そして、「唯一の被爆国に生まれた私たち日本人は、自分の目で見て、感じたことを世界に広く発信していく必要があると思う。『平和』は、人任せにするのではなく、一人ひとりの思いや責任ある行動で築きあげていくものだから」「そう遠くない将来に核兵器のない世の中が実現し、広島の『平和の灯』の灯 が消さ れるこ とを心から願っている」とまとめられた。

意外なことに産経皇室ウイークリーでは、愛子卒業式についての記述で作文については欠片も触れず。女子高等部への進学決定も卒業式翌日の2017年3月23日という謎の扱い

http://www.sankei.com/premium/news/170325/prm1703250029-n3.html
http://www.sankei.com/premium/news/170325/prm1703250029-n4.html
2017.3.25 06:00
【皇室ウイークリー】
(479)両陛下、4年ぶりの須崎ご静養 皇太子ご夫妻は発明作品ご覧に
(3/4ページ)
 22日には同展の表彰式があり、主催する発明協会の総裁を務める常陸宮さまが常陸宮妃華子さまとご臨席。常陸宮さまは「皆さんの創意あふれる作品に触れ、大変うれしく思います」とお言葉を述べられた。
 皇太子ご夫妻の長女、敬宮(としのみや)愛子さまは22日午前、3年間通った学習院女子中等科(東京都新宿区)の卒業式に臨まれた。宮内庁東宮職によると、女子高等科と合同で開かれた式典では、ご夫妻が見守られる中、愛子さまは「敬宮愛子」と呼ばれて起立された。その後、教室で卒業証書を受け取られたという。
 式典前には、ご一家で校門に立ち記念撮影に応じられた。報道陣から祝福の言葉をかけられると、愛子さまは「ありがとうございます」と笑顔を浮かべ、「先生方とお友達に恵まれて、楽しい3年間を過ごすことができました」と話された。
 愛子さまは同日夜、御所を訪れ、両陛下に中学卒業のあいさつをされた。宮内庁関係者によると、約30分にわたって会話を楽しみ、両陛下は無事のご卒業を喜び、安堵(あんど)されていた。愛子さまも非常に明るいご様子だったという。
(4/4ページ)
 皇太子ご夫妻は同日、東宮職を通じ、愛子さまの中学生活を振り返り「多くのことを学び、貴重な経験を得ることができました」との感想を出された。23日には、愛子さまが4月から女子高等科に進学されることが決まった。
 愛子さまは24日、皇居・宮中三殿を参拝し、中学卒業を報告された。愛子さまの宮中三殿ご参拝は平成18年11月の「着袴(ちゃっこ)の儀」以来。


愛子作文「原爆が何十万人という人の命を奪った」vs.公的認定されている広島原爆死亡者数「約14万人」 etc.気になる点編集

  • 2017年3月22日学習院女子中等科卒業式前取材で、愛子「先生方とお友達に恵まれて、楽しい3年間を過ごすことができました」と取材回答

https://www.youtube.com/watch?v=Xxxf5pdsWWI
http://news.tv-asahi.co.jp/news_society/articles/000096947.html
「楽しい3年間でした」愛子さま 中学校卒業式(2017/03/22 10:30)
 皇太子ご夫妻の長女・愛子さまが学習院女子中等科の卒業式に出席されました。
 愛子さまは22日午前9時10分ごろ、皇太子ご夫妻とともに3年間、通った東京・新宿区の学習院女子中等科に登校されました。卒業式は現在も続いていて、中等科と高等科の卒業生合わせて404人が出席しています。愛子さまは去年の夏休みには初めて公的な式典に出席するなど、皇太子ご夫妻の公務に同行される機会も増えました。来月からは学習院女子高等科に進学される予定です。

http://www.news24.jp/articles/2017/03/22/07357069.html
愛子さま 学習院女子中等科をご卒業
2017年3月22日 11:51
 皇太子ご夫妻の長女・愛子さまが22日、学習院女子中等科を卒業された。
 記者「愛子さま、おめでとうございます」
 愛子さま「ありがとうございます」
 記者「3年間、いかがでしたか?」
 愛子さま「先生方とお友達に恵まれて、楽しい3年間を過ごすことができました」
 愛子さまは、22日朝、学習院女子中等科の卒業式に臨まれた。先月より少しふっくらとした様子で、式では、「敬宮愛子」と呼ばれると起立されたという。
 また、卒業文集に寄せられた「世界の平和を願って」と題する作文も公開された。修学旅行で訪れた広島の原爆ドームでの体験をもとに、「唯一の被爆国に生まれた私たち日本人は、自分の目で見て感じたことを世界に広く発信していく必要があると思う」とつづられている。
 愛子さまは4月から学習院女子高等科に進む予定で、22日午後は天皇皇后両陛下に卒業を報告される。

http://news.tbs.co.jp/newseye/tbs_newseye3010517.html
愛子さま、学習院女子中等科をご卒業
 皇太子ご夫妻の長女、愛子さまが中学校を卒業されました。
 午前9時過ぎ、愛子さまは皇太子さまと雅子さまとともに学習院女子中等科の卒業式に晴れやかな笑顔で向かわれました。
Q.愛子さま、おめでとうございます
 「ありがとうございます」
Q.3年間いかがでしたか?
 「先生方とお友達に恵まれて、楽しい3年間を過ごすことができました」
 女子中等科と高等科の卒業生およそ400人と保護者らが出席した卒業式では、皇太子ご夫妻が見守られる中、卒業生一人一人の名前が呼ばれました。
 また、愛子さまは、卒業記念の文集に「世界の平和を願って」と題した文章を寄せられました。去年5月の修学旅行で広島の平和記念公園を訪れたことにより、「意識が大きく変わった」と振り返り、「『平和』は人任せにするのではなく一人ひとりの思いや責任ある行動で築きあげていくもの」などと平和への思いをつづられました。
 愛子さまは来月、学習院女子高等科に進学される予定です。(22日11:16)


Part3212-580 可愛い奥様@無断転載は禁止 sage 2017/03/22(水) 13:15:54.93 ID:XYymtKNM0
>>375
>そして、何よりも、原爆が 何 十 万 人 という人の命を奪ったことに、怒りと悲しみを覚えた。

お誕生日動画で折り鶴並べて資料まで見ていたというのに…。
高齢の方で「何十万」も亡くなったという認識の方を見かけますけどね。
白髪三千丈の世界だから。

【広島記念資料館】
1945(昭和20)年8月6日午前8時15分、広島に投下された原子爆弾ばくだんは、地上600mの上空でさくれつしました。
原爆(げんばく)によって亡なくなった人の数は正確(せいかく)にはわかりませんが、
1945(昭和20)年12月末までに約14万人(±1万人)が亡なくなったと推定(すいてい)されています。

参照:広島市ホームページ  原爆・平和  原爆被害と復興  死者数について  死者数について
http://www.city.hiroshima.lg.jp/www/contents/1111638957650/index.html


586 可愛い奥様@無断転載は禁止 sage 2017/03/22(水) 13:24:52.89 ID:JWOOLvCq0
>>580
この作文本人が書いたとは思えないわ。
あざといもの
いかにもな文章構成
> 原爆ドームを目の前にした私は、突然足が動かなくなった。
>まるで、七十一年前の八月六日、その日その場に自分がいるように思えた。
これを最初に持ってくる文章構成がそう。よくあるパターン。

>>580の言うように
本当に学校で事前学習をしていたならそこは10万人以上の方が亡くなったと書くよね。

自分の娘も修学旅行で広島に行きましたが事前学習はかなりやったようですよ。

朝日新聞英語版が原文「何十万人という人(正しくは約14万人)」を「vast number of people」とわざわざ超訳wwする気遣いを発揮www編集

Part3212-817 可愛い奥様@無断転載は禁止 sage 2017/03/22(水) 17:20:54.86 ID:EybaGCnG0
さっそくアカヒがアイコさん作文を取り上げて世界発信しているわ。
http://www.asahi.com/ajw/articles/AJ201703220037.html

ねえねえアカヒさん、どうして「何十万人もの~」を
「多数の人(vast number of people)」にしたの?
プリンセスが原爆犠牲者の水増しなんてしたら国際問題になっちゃうから?



733 可愛い奥様@無断転載は禁止 2017/03/24(金) 11:59:45.56 ID:lPHqYk6U0
知り合いの編集者の方に電話で喋ったら、

「ああ、友納尚子ね。オレもそう思った。よく気づいたねえ。でも、オレそれよりもっと笑えることに気づいちゃった」

「え、なんでしょ?」

「編集者の本能で、あることを感じたんで、オレ愛子さんの文章をWORDにまんま貼り付けてみたのよ」

「え・・・・?」

「思ったとおりだった。何だと思う?」

「うーん・・・・・?」

「ヒント。WORDのA4縦だと何も設定しないと40文字になってるでしょ」

「ええ。・・・・・あ。愛子さんの作文って手書きじゃあなく、WORDで打ったものだってこと?」

「普通作文って、手書きでしょ」

「でも、今どきの中学生WORDぐらい使うような?」

「うんまぁ、そうかもだけど、なんでマスコミが卒業式前に愛子さんの作文を手に入れてたわけ?」

「・・・・・・」

「おまけに、あの皇室嫌いの左翼紙、朝日新聞が前々から愛子さまを激賞してるし、即愛子さんの作文を英訳までしちゃって卒業式と同時に流してるし。組織的だ、とオレは感じたけどね」


745 可愛い奥様@無断転載は禁止 sage 2017/03/24(金) 12:42:07.01 ID:3uFuSIwd0
宮内庁が事前にデータ化してマスコミに解禁日指定で渡してただけでしょ
組織的って当たり前じゃん
でなきゃ全国紙が一斉に全文掲載しないよ


http://www.asahi.com/ajw/articles/AJ201703220037.html
Princess Aiko finishes junior high, reflects on Hiroshima trip
THE ASAHI SHIMBUN
March 22, 2017 at 13:05 JST
Princess Aiko and her parents, Crown Prince Naruhito and Crown Princess Masako, acknowledge bystanders who offered their congratulations on Aiko's graduation from Gakushuin Girls' Junior High School on March 22. (Pool)
Princess Aiko, the only child of Crown Prince Naruhito and Crown Princess Masako, graduated from Gakushuin Girls' Junior High School on March 22. She attended the graduation ceremony with her parents.
When reporters congratulated her at the main entrance to the school, Aiko, 15, responded, "I enjoyed the past three years because I was fortunate to have good teachers and friends."
The Imperial Household Agency also released a composition Aiko wrote for inclusion in the graduation anthology. She looked back on a school trip to Hiroshima in May 2016 and expressed her desire for the eventual abolition of nuclear weapons.
In the composition, Aiko wrote that when she stood before the iconic Atomic Bomb Dome she felt the suffering and chagrin of those who were affected by the Aug. 6, 1945, atomic bombing.
She also wrote about feeling anger and sadness when she visited the Hiroshima Peace Memorial Museum and learned about the vast number of people who died as a result of the bombing.
She also wrote about folding origami paper cranes with her friends and touched upon the two given to the museum by U.S. President Barack Obama when he visited in May 2016. She wrote that the large number of paper cranes on display was an expression of the same desire for peace held by those who left them.
"As Japanese born in the only nation to have the atomic bomb dropped on it, there is a need for us to widely transmit to the world what we have seen with our own eyes and felt," she wrote. "I pray that some day, in the not too distant future, a world without nuclear weapons will emerge and the 'Flame of Peace' in Hiroshima can be extinguished."
The Flame of Peace is a sculpture that has served as a symbol for nuclear abolition and is meant to stay alight "until the day when all such weapons shall have disappeared from the Earth," according to the Hiroshima Peace Memorial Park website.
(This article was written by Akiko Tada and Yasuhiko Shima.)

産経新聞英語版が原文「何十万人という人(正しくは約14万人)」を「the hundreds of thousands of lives」と翻訳しちゃった件www編集

  • 産経新聞英語版の愛子作文全訳

https://japan-forward.com/princess-aikos-yearbook-essay-praying-for-peace-in-the-world/
Princess Aiko’s Yearbook Essay: “Praying for Peace in the World”
The Sankei Shimbun
Diplomacy & Security March 24, 2017 The Sankei Shimbun
On March 22, the Imperial Household Agency announced that Toshinomiya Aiko-sama, the daughter of Crown Prince Naruhito and Crown Princess Masako, had written an essay for Gakushuin Girls’ Junior High School memorial yearbook on the occasion of her graduation. Princess Aiko’s essay, titled “Praying for Peace in the World,” is reprinted below in full:

One winter morning not long before graduation, I was hurrying through the front gates of the school when I happened to glance up at the sky. It was a perfectly clear day—there was not a single cloud anywhere to be seen. I have my family to look after me. I am able to go to school every day to learn. I have friends who are waiting for me… “How happy I am! And how peaceful,” I thought quietly to myself as I looked up at the blue sky. I began to think very differently about just how happy and peaceful my world is after I visited Hiroshima in May, during my third year of junior high school.
As I gazed up at the ruined dome directly under which the atom bomb exploded, I suddenly found that I was unable to move. It was as though I was standing at that spot on August 6, 71 years ago. I had seen the dome in pictures before, or at least what is left of it: the iron framework and part of the outer wall. But I was shocked to see it in person. It is so wretchedly horrifying and real. In the Hiroshima Peace Memorial Museum I saw the charred remains of lunchboxes which children killed in the blast had been holding. I saw many other exhibits, too, about the damage that heat rays and radioactivity cause to the human body, and about the after-effects of the bombing. I couldn’t believe my own eyes—could this really have happened? I could not view it all and maintain my presence of mind. More than anything else, I felt anger and sadness at the hundreds of thousands of lives taken by the bomb. And what about those who survived? How did they get through each day having lost their families, the people who took care of them, and even the will to go on living? How did they feel? I could not even begin to imagine it.
It was only when I first felt myself somehow back there that August day seventy-one years before that I began to know something of the suffering, the deep regret experienced by those who were in Hiroshima when the bomb was dropped. This was an invaluable experience—something that it is impossible to understand unless one has actually gone to the scene where the bomb fell and exploded more than seventy years ago.
Two weeks after I went to Hiroshima, the American president, Barack Obama, also went to the site of the bombing. While there, he expressed his desire to work together for greater peace, and to have the courage to pursue a world without nuclear weapons. President Obama folded two origami cranes himself while praying for peace, quietly placing them in the Peace Memorial Museum. We also offered the thousand-crane strand that we had all folded together. But there were thousand-crane offerings from many others who had come to Hiroshima, and from all over the world. When I saw all of these thousands upon thousands of folded cranes, I felt, anew, that everyone is united in the same desire.
In the Peace Memorial Park in Hiroshima there is the Flame of Peace which has been burning continuously since 1964. This flame was lit with the hope that one day there would be no more nuclear weapons in the world, and it will go on burning until that day comes. As a symbol of peace, this flame has been used in a variety of ceremonies. As I stood before the Memorial Cenotaph, I could see the skeletal dome beyond the Flame of Peace. But the dome that had appeared unspeakably cruel when I saw it up close now looked different. It was protected by the arch-shaped cenotaph, beneath which nestled all of the profound hopes and prayers of people from around the world. It was at this precise moment that I first asked myself, “What is peace?”
There is no one who does not wish for peace. This is why we speak of it so often. However, to speak of peace is one thing, but to achieve it in the world is not so easy. There are millions around the world who even today suffer from conflicts and wars. How should we work to make peace a reality? What should we do? I glanced up unthinkingly at the blue sky as I entered my school gate that winter day. But I cannot take it for granted—the sky is not always blue. Likewise, I cannot take for granted that I am able to live each day in peace and security, free from strife. During the war, no one was able to take these things for granted, for peace and security were nowhere to be found. Perhaps, peace begins with each one of us, showing our regard for one another and giving thanks for each kindness we receive, each tiny moment of every day.
We who were born in Japan were born into the only country ever bombed with nuclear weapons in a war. I believe that it is incumbent upon us, as Japanese, to tell the world what he have seen with our own eyes and felt in our own lives. We cannot wait for somebody else to create peace—we each must act thoughtfully and responsibly in order to bring it about ourselves.
I would like to visit Hiroshima again in order to deepen my understanding of the meaning of peace. I know that I will find the beginnings of new appreciations of peace there. I pray with my whole heart that soon, in the not distant future, the world will be rid of nuclear weapons, so that the Flame of Peace in Hiroshima can finally be blown out.

秋篠宮(=礼宮)殿下編集

学習院初等科卒業文集掲載「バフロンズの開発」編集

自分の将来を想像することをテーマとする作文である。

  バフロンズの開発
世界の肉不足は、最近の大きなニュースの一つです。 安くて大量の肉を得るためには、牛や豚ばかりに頼ってはいられません。狭い国土のわが国では、成長期間が長く、生まれる数の少ない牛などより、鶏肉をもっと利用する必要があります。
そこで私は、太って肉が多いといわれる中国産のバフコーチンとブロンズ種の七面鳥とから、新しい肉用鳥の開発に取り組みました。研究期間五ヶ年、やっと新しい品種『バフロンズ』が誕生しました。
体重二十キロ、体高六十センチ、卵も年百個は生みます。体重はコーチンの四倍もあり、肉質も良く味も良いのです。今では日本ばかりではなく、世界各国で飼われ、肉用種としてばかりでなく、おとなしく、人になれ易い性質のため、子供たちにも人気があります。
今日も研究室の庭では、子供たちがバフロンズと楽しく遊んでいます。

学習院中等科卒業文集掲載「卒業前の自分」編集

  卒業前の自分
     文仁親王
 私はペンギンの形をした貯金箱である。私が禮宮文仁親王という長いようで短い名を持った十五歳の子供に会ったのは 、約一年前である。以来、私は彼の机の隅に存在している。私はこれから帰宅後の彼の様を書いてみることにする。実は彼が私に卒業文集用にと依頼したのである。
 彼は、普通四時頃に学校から戻って来る。彼は暫しだらだら時を過し、見ている私がいらいらしてくる頃やっと勉強を始める。その勉強なるものが少々だらしない。カセットを聴きながらするのである。やがて彼は部屋の隅に山積みにされているカメラのカタログを見始める。買うつもりなのか、見て喜んでいるだけなのか。よく分からない。夜は夜で人に会ったり、一人物静かに「rock and roll」などという騒々しいものを聴いたりしてだらだら時を過す。そして十一時頃寝室の方へ姿を消す。
 以上が私の見た彼の一日である。十五歳とはこのような時期なのか?
 一つお断りするならば、ここに書かれた事はフィクションであり、私のような几帳面な人間にとっては日常ありうべからずであります。

秋篠宮妃殿下(=川嶋紀子さん)編集

小学校3年生当時の作文「私の弟」編集

  私の弟
 私には弟が、います。舟と書いて、しゅうと読みます。舟ちゃんはかわいい時と、悪い時があります。かわいい時は、かわいくわらったり、私のドレスを着る時です。お母様が、私のかみのけをとかして下さっているとき、舟ちゃんは、かみをとかしてるのを見て、お母様に「かみとかして。」といいます。私がそれを見ると、弟は、なんとなく女の子みたいに、見えます。悪いときは、かみのけを引っぱったり、だいじな物をさわったり、する時です。
・・中略・・
舟ちゃんはこのごろ、いろいろなことをいいはじめました。たとえば、「タツ」、「キコ」、「カアカア」などいいます。「タツ」というのは、お父様の名前が、たつひこで、お父様が、ぼくのことを「タツ」といいなさいと、教えたので、それから「タツ」というようになったのです。「キコ」というのは、私の名前です。だから、そのまま、「キコ」というようになったのです。 「カアカア」というのは、カラスが、「カアカア」と鳴くからおぼえたのです。
いつもいたずらをして、私をこまらせる舟ちゃんですが、ほんとうは、私の心の中には、舟ちゃんのことをだいすきという心があるのです。

小学校卒業文集「初等科の思い出」編集

  初等科の思い出   オーストリー在 川嶋紀子
四年生で入学してから、五年生の二学期に特別休学するまでの短い間でしたが、私の初等科生活にはいろいろと楽しい想い出があります。
なかでも五年生の春に三クラスそろって八幡平へ旅行した時に、 経験したおもちつきは特に印象深く心に残っています。
私達が八幡平に訪ねている間ずっとよいお天気にめぐまれ、翌日は松尾校舎にさよならをしなければならない三日目の日も、青い空は、大きく広がっていました。
この日の午後、先生も生徒も 全員でおもちつきをしました。校庭にうすをすえ、中に白いゆげがぼうぼうとでるふかしたばかりのもちごめが入れられました。
うすのとなりには水の入ったおけがおかれました。まず、東組のお友達がうすの回りを囲み、いい音でつきはじめました。自分達の部屋で西組の番がくるのを待つ間、私はペッタン、ペッタンと おもちのつかれる音を、空を見上げながら聞きました。
小さな音でも大きい音でも力のこもっている感じがしました。長い間ようやく待って、西組の女子の番がきました。名ぼ順にならびおもちをつき、私の番がとうとうきてしまいました。
うすの所まで行くとお手伝いをして下さるおば様が、タライの水を手の上にのせうすの中のおもちにつけて下さいました。きねを持ち上げると思ったより重く、前についていた友達が軽そうに持ち上げていたきねとちがう気がしました。
私は四回うちましたが、うつたびにきねがいきおいよくはね返ってくるような気がしました。やわらかいにおいもプーンと感じました。
夕食後のデザートはおもちでした。あんこや大根おろしをつけていただきました。
みんなで力を合わせた味がしみこんでおり、口の中がホカホカでした。私にとっては生まれて初めてのおもちつきで、 それまでいただいた中で最高のおもちでした。

秋篠宮家眞子内親王殿下編集

学習院初等科卒業文集『秋桜集』掲載「これからしたいことの一つ 」編集

  これからしたいことの一つ
     秋篠宮眞子内親王
 五年生の春休みに、家族と一緒に奈良県と京都府を訪れました。正倉院で長く受け継がれてきた宝物、唐招提寺で東山魁夷画伯が鑑真和上の旅を想いながら描いた障壁画、そして京都御所で中国の故事を題材としたものや花鳥風月の襖絵などを鑑賞したことは、私にとって良い思い出になりました。また、奈良鳥類研究所では上村淳之先生からいろいろな鳥についての楽しい説明を受けました。先生は鳥を描くためにはその生態をよく知り、自分の心の中で鳥の様子を想像できるように することが大事であるとお話しくださいました。
 日本画を見ていると、描かれた時代の歴史、自然や生活などを知ることができ、 たいへん興味深く思います。また、私たちが目にする多くの美しい古典絵画は、適切な修復を繰り返し 今日に伝えられていると聞いています。
 現在の日本画の修復は、オリジナルの部分を尊重して、修復の計画と結果の予測を立てて、 伝統的な技術と最新の科学技術を使って進めるようです。貴重な美術品を大切に保存して、修復することは、非常に大切なことではないでしょうか。
 このように、私は日本画の制作、保存や修復の仕事、そして広く美術の研究にも関心を持っています。そしていつか、今にも飛び立ちそうな鳥の絵を描きたいと思います。

秋篠宮家佳子内親王殿下編集

学習院初等科卒業文集『佳桜集』掲載「これからも続けたいこと」編集

  これからも続けたいこと
     秋篠宮 佳子
 私の将来の夢は、まだ具体的に決まっていません。しかしこれからも続けていきたいと考えていることのひとつに小学二年生の時に始めたフィギュアスケートがあります。
 フィギュアスケートを習い始めたころは、氷がつるつるして滑ったり転んだりして難しいと感じましたが、練習を続けるうちに少しずつスピードを出したり、片足で長く滑ることができるようになって楽しくなりました。段々滑ることに慣れてくると、ジャンプやスピン、そしてステップなどを習うようになりました。
 今は、音楽に合わせてきれいに滑っていけるように先生が丁寧に教えてくださいます。上手にできないこともありますが、繰り返し練習をしてできるようになると大変うれしいです。
 私が通っているスケート場は、スケートのインストラクター、リンクを管理する人、怪我をしたときの救護員などたくさんの人が働いています。多くの人たちに支えられてスケートができることに感謝の気持ちを忘れずにこころがけていきたいと思います。そしてこれからも、スケートの練習をしながら、他にも関心を持っているいろいろな事ができるように努力していきたいと思います。

黒田清子さん(=紀宮殿下)編集

学習院初等科卒業文集『紀桜集』掲載「盲導犬指導員」編集

自分の将来を想像することをテーマとする作文である。

  盲導犬指導員
「オーケイ。ストレイト。ゴー。グーッド。グーッド」
 朝の冷たい空気の中、私はアドニスと共に路上に立った。アドニスは、足元やまわりを見ながら、注意深く私を導いてくれる。しばらくすると、一つの建物が見え、私たちはその中に入った。とびらの中には、『東京盲導犬協会』と書いてある。
私は今見習いの指導員で、盲導犬に仕立て中のアドニスと練習をしているのだ。夕方になると、協会の食堂に集まり話し合いをする。協会の理事長、塩屋賢一先生に、「君なかなか板についているよ」と言われて、思わずいすの下にいるアドニスに、「アドニス、がんばろうね」と言ってしまった。
一人前になるために、あと一年かかる。そう思いながら、アドニスをなで、希望に燃える私であった。

学習院中等科時代の詩「母の日に」編集

  母の日に
母の日に夕焼けの絵を描いた
夕焼けはどこか母に似ているから
夕焼けの絵を描いた
ただそれだけの絵なのに
母は大事にたなの上にかざってくれた
夕焼けのよく見える
窓の近くにかざってくれた

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