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伝蓋

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田園調布雙葉学園のこと。
海外生活が長い帰国子女イメージが現在に至るまで流布されまくっている雅子夫人であるが、実は小学1年生3学期~高校1年1学期は丸々日本で生活し義務教育を受けているため、厳密な意味での帰国子女ではない。

http://www2.asahi.com/national/birth/chrono.html
朝日新聞:「年表でみる皇太子ご夫妻の歩み」より

1969年9月 米国・ニューヨーク市立第81小学校に入学
1971年3月 帰国。東京・目黒区立原町小学校1年に編入
1971年4月 東京・新宿区立富久小学校2年に編入
しかいし作文
1972年4月 東京・田園調布雙葉学園小学校3年に編入
1976年3月 田園調布雙葉学園小学校卒業
※コジュケイの剥製作り卒業作文
1976年4月 田園調布雙葉学園中学校入学
1979年3月 田園調布雙葉学園中学校卒業
※カネボウのモデルなのヨ!オリビア・ハッセーなんてすぐに引っ込むから見てらっしゃい!!ゲヒヒヒヒ ・ダーツ目卒業文集
1979年4月 田園調布雙葉学園高校に入学
ソフトボール部合宿を部員意見対立で立場が悪くなった小和田雅子が抜け出しバックれ
1979年9月 米国・マサチューセッツ州立ベルモントハイスクール2年に編入


参考:秋篠宮妃紀子殿下の義務教育期間

1971年9月 フィラデルフィア私立リー・スクール入学
1973年6月 帰国。静岡市立中田小学校1年に編入
1973年9月 東京都新宿区立早稲田小学校1年に編入
1975年4月 東京・豊島区立目白小学校3年に編入
1976年4月 学習院初等科4年に編入
1977年8月 父川嶋辰彦氏のオーストリア赴任(国際応用システム解析研究所主任研究員)に伴い、ウィーンのアメリカン・インターナショナルスクール・イン・ヴィエンナ6年に編入
1979年9月 帰国。学習院女子中等科1年に編入(~卒業)


小学校3年生の編入学から高校1年で父親小和田恒の仕事の都合で渡米するまでが田園調布雙葉学園と小和田雅子との関わりである。
なお母親である小和田優美子も同学園の卒業生であり、編入学までさせて雅子を田雙に入れている。敬宮愛子ちゃんの養育係の一人である福迫美樹子氏も田雙卒業生であり、また田雙幼稚園に教諭として勤務していてそこから愛子養育係として引き抜かれたことからも、雅子夫人の田雙に対する拘りは大変強いものと考えられる。
ちなみに田雙卒業生の有名人には、他に野田聖子氏がいる。

小学1年生時期アメリカから帰国後、編入したのは目黒区立原町小学校であり、程なく新宿区立富久小学校2年に再編入している。田園調布雙葉学園に雅子が入るのは小学3年生からであり、その以前編入学試験に不合格となっていた事実がある。なおこの編入学試験のための塾のようなものとして通っていた幼児教室は、美智子さまが四谷雙葉幼稚園に通われていた当時の担任・和田(旧姓野原)育子さんが開いていたものだった。

『雅子さま 殿下の愛に守られて』江森敬治、集英社(2001年)
pp.48-50より引用
 昭和四十六年二月。ロシア、アメリカ滞在を経て帰国。雅子さまは東京・目黒区立原町小学校の一年生に編入された。ニューヨークの日本語教室で毎週一回、国語と算数を学ばれていた雅子さまだったが、やはり日本での学校生活はとても不安なものだったであろう。でも、担任の先生は、「雅子ちゃんは、ソ連(当時)やアメリカで暮らしていたの。みんなの知らないことを一杯知っているから雅子ちゃんによく聞いてごらんなさい」と子供たちに話してくれた。おかげで雅子さまも比較的すんなり学校に溶け込まれ、すぐに友達もできたという。
 ご家族の転居に伴って、雅子さまは二年の時に新宿区立富久小学校に転校された。しかし、その前にご両親には「私立で小中高校の一貫教育を受けさせ、娘をじっくり育てたい」との希望があり、雅子さまは、母親優美子さんの母校である私立田園調布雙葉小学校への編入試験をお受けになることとなった。
 編入試験が終わったあと、雅子さまは優美子さんにこう話されたという。「ねえ、お母さま。学校の入学式って何? 運動会っていつあるの。 サカナの背ビレ、尾ビレってなんのことなの。社会も理科も何もわからなかったわ」。アメリカでは新入生たちは、それぞれ担任の先生の名前が掲示されている教室に入り、授業がスタートするだけで、入学式のようなセレモニーはない。日米の生活習慣の違い、勉強内容の差。小学生の雅子さまの前には様々な壁が立ちはだかっていた。
 数日後、優美子さんが不合格を知らせると雅子さまは「わかっていたわ。だって何もわからなかったのですもの」と答え、しょんぼりされていたという。しかし、もう一度、チャレンジ。雅子さまは小学校三年生の時、田園調布雙葉小学校に編入された。
『素顔の雅子さま』週刊女性皇室取材班、主婦と生活社(1993)

pp.23-24より引用
 だが、不思議な縁を感じていた恩師は中坪先生(=新宿区立富久小学校時代担任だった中坪静子さん)だけではなかった。
 美智子さまが雙葉学園付属幼稚園(東京・四谷)に通われていた当時、年長組で担任だった和田育子先生もそんなひとり。
 和田先生は、幼稚園を辞めてから自宅で幼児教育の個人教室を開いていたが、雅子さまが母・優美子さんとともに訪ねてきたのは昭和46年のことだった。
「おかあさまが、どこからか私のところをお聞きになっていらして、電話をかけていらしたんです。私のところは田園調布雙葉をお受けになる方は少なかったので、初めはお断りしたのですが、ぜひにとおっしゃるので……。いま思えば、不思議なご縁です。その後新聞で、外交官試験に合格なさったということを知り、とてもうれしかったので、お祝いにお花をお贈りしたことがありました。お礼のために、わざわざおかあさまとご一緒に訪ねてくださいましたが、それはご立派に成長されていました」
 と、和田先生はそのころを懐かしむ。
 富久小学校2年から、母・優美子さんも学んだ田園調布雙葉への編入試験に向けての週1回の勉強は約1年続いたという。
 授業は庭に面した畳の8畳間。
「1回がだいたい2時間。雅子さまはその間、きちんと正座して勉強をなさっていらっしゃいました。編入試験は国語、算数だけでしたが、私は社会や理科も含めた4科目全部をお教えいたしました。どちらかといえば、おとなしいお子さんでした。ただ、申し上げることはキチンキチンとなさるしっかりしたお子さんでした。アメリカから戻られたばかりでしたが、漢字などは書き順も含めて、かえって他のお子さんよりもしっかりできていました。日本人学校の教育ぶりに感心させられたものです」<

1972年3月27日 編入学に失敗していた田園調布雙葉小学校にやっと入れたご褒美で、母方祖母・江頭寿々子と一緒に新幹線で関西旅行の雅子(8歳)。
「マーちゃん、田園調布雙葉入学祝い。祖母寿々子と2人での関西旅行。新幹線の中にて。8歳。72年3月27日。」と、祖母寿々子による説明が添えられた雅子画像


伝蓋教諭らと雅子がどのように関わっていたかは、中学卒業文集で窺い知ることができるだろう。
cf.1979年3月 田園調布雙葉学園中学校卒業文集、恩師の身体的特徴を揶揄したり勝手に好きな食べ物を想像したりする(参照:【ダーツ目】)

伝蓋在学当時に雅子がやらかした数多いトンデモエピソードについては「いたずら」と「ホスチア」の項を、また級友たちとの微妙な関わりについては「ソフトボール部」「土川純代」「原久美」を参照されたい。

婚約が決まった際、小学校の先生と話したことがあるが、スルーされた。双子のことは普通に褒めてらしたが。社交辞令というものがあろうに。編集

Part2916-295 可愛い奥様@転載は禁止 sage 2015/01/11(日) 06:49:59.54 ID:KWcZV+9b0
>>284
婚約が決まった際、小学校の先生と話したことがあるが、スルーされた。双子のことは普通に褒めてらしたが。社交辞令というものがあろうに。普通は、素敵な方よ、とか聡明な方でしたわ、とかお世辞のひとつもいうだろうに。
嘘でも褒めるとこはなかったのですね。

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