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ナンシー雅子

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小和田雅子が伝蓋時代にプロレスごっこで用いていた、往年の女子プロレスリング選手「ナンシー・久美」に因んだリングネーム。
なお、指差し恫喝等ヒールっぽさ満点の仕草が見られることから「デビル・雅子」と混同されることがあるが、それは誤りである。

歯の浮くような雅子擁護記事を書き散らしていることでお馴染みの元女湯盗撮カメラマンでフリージャーナリストの友納尚子も、小学生時代プロレスにはまっていたとのこと。偶然持ち合わせていた共通点である。

『美貌なれ日本 雅子妃の時代』赤塚行雄 KKベストセラーズ(1993年)
第一章 新しい日本の顔
リングネームは「ナンシー・雅子」
pp.54-56より引用
 一九七五年(昭和五一年)三月、小学校を卒業して、四月に中学に進んだ。
 クラブは、小学校のとこと同じように生物部に入ったが、二年になってから、新しくソフトボール部を率先してつくった。
 巨人軍の多摩グラウンドは、デンフタ(田園調布雙葉の通称)の近くなので、友人と一緒によく練習をみに行った雅子さんは巨人の高田繁選手のファンで、下敷の間にブロマイドをはさんでいた。
 いつか、野球好きが集まって野球同好会をつくり、一年たってから正式のソフトボール部に昇格したのだった。雅子さんは背も高く、髪もショートカットで、ボーイッシュにとびはねていたから、
「オワちゃん、素敵!」
 と下級生などの間でも評判になっていた。オワちゃんは、デンフタのソフトボール部の中心選手で、二塁、三塁、ショートなどをこなし、打順は三番から五番。手首のスナップをきかせたアンダースロー気味のビューンとうなるような球を力強く投げた。
 ところが、デンフタはいつも弱く、対外試合では連敗し続けていた。部員たちは、校章入りの赤い帽子をかぶっていたが、ユニホームはなく、体操着に背番号を縫いつけていた。オワちゃんは、高田選手と同じ「8」だった。
 ソフトボール部は、週三回の練習日があったが、一回も休んだことがなく、また、夜のテレビのプロ野球中継なども熱心にみていた。
 スポーツは何でも好きで、ひところはプロレスにも興味をもって、プロレスごっこを楽しんだこともあった。
 オワちゃんのリング・ネームは、
「ナンシー・雅子」
 というのだった。これは、当時はやっていた女子プロレスの美人レスラー、ナンシー・久美選手に憧れていての名前だった。
 スキーは現在ではバッジテスト一級の腕前。中学三年生のとき、学校のスキー教室で上越に行ったとき、級友たちはインストラクターに教えてもらうより、雅子さんに教えてもらう方がわかりやすく、皆、雅子さんのまわりに集まった。
 オワちゃんは、てれて、
「わたしは、とにかく、モスクワ仕込みだから……」
 と言って笑っていた。
 野球に話をもどそう。中学三年のときに、世田谷の大会でようやく優勝したことがあった。まぐれの優勝といった感じだったが、はじめてのことで、皆、抱き合ってよろこんだ。優勝カップにジュースを注いで回し飲みをして、オワちゃんはご機嫌だった。

『婦人公論』1994年7月号 渡辺みどり ご成婚1周年に思う 小和田家の家風と歳月
p.235より引用
 小学校高学年の頃、雅子さんは一時、プロレスに興味を持ったことがある。「ナンシー雅子」と自ら名乗り、妹たちを相手に技をかける活発な一面もあった。

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