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フランス東部アルザス地域圏の一地方都市。浩宮徳仁親王と小和田雅子が昭和59年(1984年)に出会っていたという説がある土地である。徳仁と雅子の公式に認められている初めての出会いは昭和61年(1986年)10月18日のスペイン・エレナ王女歓迎レセプションパーティーであり、それより2年も早いことになる。

例えば『女性自身』1989/7/18号では、徳仁&小和田雅子コルマール事件と、礼宮と川嶋紀子嬢との交際を抱き合わせにする形で記事にしているが、後者については礼宮婚約に当たって紀子嬢英国旅行の事実はないと後に友人平野道子さんらが証言をしている(後掲)。このように偽情報も混ぜられていてこれらの情報を鵜呑みにするのは危険である。しかし複数の雑誌媒体に繰り返し記事にされているということは、このコルマール事件を世間に報じることによって、当時小和田雅子を皇太子妃候補として強く印象付けたいという意図があったのではなかろうか。

昭和天皇を始めとする千代田関係の人々から皇太子妃としては不可と判断が下されていた小和田雅子に、何故徳仁が強い執着を見せたのか? それはコルマールで彼がハニートラップに嵌められていたからでは、とする説も2ちゃんねるあたりで囁かれている。


小和田雅子について、皇太子妃候補の芽が完全に潰えていた時期に発売された記事であることに注目。

美智子さまが関係しているというのは眉唾だが「'84年の9月と12月の2回に渡る浩宮さまのフランス旅行に、極秘で雅子さんが同行していたことが明らかになりましたが」と、ここでもコルマールについてしつこく触れられている。

徳仁・小和田雅子婚約内定時期に発売されたもの。

『週刊ポスト』1989年7月7日号 <スクープ!5年前の極秘旅行(1984年9月・12月)を徹底追跡!! 皇太子徳仁と小和田雅子さん「アルザスの恋」>岩瀬達也編集

pp.44-49より全文引用
2度にわたるフランス国内旅行
 ヨーロッパ・アルプスには、モンブラン、アイガー、マッターホルンといった世界有数の高山が集まっている。フランスからスイス、イタリア、ドイツを経てオーストリアにまたがるこの山脈は、その山麓に多くのリゾート地を持っている。
 なかでもイタリア国境にほど近いフランス・サボア地方の小村、メリベルは、最高級リゾート地として知られている。ここは、ヨーロッパの王室関係者や政治家、映画スターといった著名人が集うことでも有名だ。
 これまでほとんど日本に紹介されることのなかったこのリゾート地のメリベルで、五年前、日本人の一団がクリスマスを過ごしていた。その一団とはオックスフォード大学マートン・カレッジに留学中の浩宮、現在の皇太子徳仁とその一行である。
 当時この旅行は、皇太子のプライベートなスキー旅行としか発表されなかった。しかし、このプライベート旅行に関与したある関係者は、単なるスキー旅行ではなかったという。
「これはまったく知られていない事実なんですが、この旅行のなかに皇太子殿下のお妃選びにおける重大事実が隠されているんですよ」
 と前置きして、この人物はこう語り始めた。
「メリベルでの皇太子殿下は心行くまでスキーを楽しまれ、岩肌が見えている危険なところも、大胆に滑られた。われわれ日本人関係者が心配するほどでした。
 そういう意味では、間違いなくスキー旅行だったのですが、実はこの時、一行の中に殿下の意中の女性――日本でもその後、最有力妃候補としてとりざたされた小和田雅子さんが参加していたんです。しかも、この年、殿下はフランス国内を二度に渡って小和田さんを伴って旅行しているんです」
 一瞬、耳を疑うほどの証言である。
 小和田雅子さん(26)とは、皇太子妃候補として最有力といわれる女性のひとり。外交官である父親・恒氏の米国赴任にともない、田園調布の雙葉からボストンの高校に転校。85年6月、ハーバード大学経済学部卒業の際にはマグナムクラウデ賞(注:原文ママ)(優等賞)を受賞した。帰国後、86年4月に東大法学部に学士入学したが、約半年後の10月、外務公務員上級試験に合格し、88年7月からは、外交官としての研修のため英国のオックスフォード大学ベリオール・カレッジに留学し、国際関係論を専攻している。
 ある皇室関係者が語る。
「この旅行をきっかけに皇太子殿下の小和田さんに対する思いが募るようになったのです。つまり“恋心”を抱かれたのです。その後、小和田さんをひとりで東宮御所に招いたり、たいへんな気の入れようでした。皇太子妃がなかなか決まらないのは、いまでも殿下が小和田さんに強い思いを抱いているからに他ならないんです。
 もし、87年の昭和天皇の体調急変がなかったら、おそらく小和田さんは7月には留学されず、いまごろ成婚は実現していた可能性もあります」
 皇太子の小和田さんに対する“思い”を決定づけた、この84年の二度にわたるプライベート旅行の“内容”は、前出の関係者によると次のようになる。その内容を見ると、この旅行が皇太子妃選びにおいて、重要なウエートを占めているかがよくわかる。
(1)12月のスキー旅行は、クリスマスと新年をメリベルで過ごし、9月の旅行は主にアルザス地方のワイン街道に沿った小都市を回る旅だった。
(2)旅行には、小和田さん以外に中年女性も加わっていた。
(3)この二回の旅行で、皇太子と小和田さんは、互いの価値観や意志を確かめあった。
 まさに、関係者しか知りえない詳細さといえよう。
 日本で一般公開された資料や報道を調べうる限り調べた結果、この9月、12月の二度にわたるプライベート旅行については、『朝日新聞』が12月の旅行についてのみベタ記事で報じているにすぎなかったことが判明している。
 公にされていない、関係者のみが知りえる旅行スケジュール――。五年前にとりおこなわれたこの極秘旅行に、本当に小和田さんは同伴していたのか。そのあとを実際に歩き、足取りを追跡することにした。すると、そこには実に、衝撃的な事実が待受けていたのである。
 
幻想的な「クリスマス・イブ」
 パリからTGV(新幹線)と列車、それに車を乗り継いで、約六時間。フランスの農耕地帯を南西へ六百キロほど下ると、アルプスのサボア地方、バノワーズ国立公園の麓に開かれたメリベルに到着する。
 ここが、二度のプライベート旅行のうち、クリスマス・イブを過ごした12月の旅行先である。『朝日新聞』は、84年12月25日付朝刊のベタ記事でその旅行をこう報じている。
「英国留学中の浩宮さまは、二十三日から冬休みを利用して、フランス・アルプスのメリベルでスキーを始められた。英国での最初の宿泊先だったトム・ホール大佐家の山荘に宿泊、同大佐の家族と一緒のスキー旅行だ」
 宿泊先の山荘の所有者、トム・ホール氏は、英国王室とも関係が深く、皇太子の英国における後見人的存在ともいわれる。
 またメリベル村観光課作成のパンフレットによると、村のリゾート地としての歴史は約半世紀前にさかのぼる。スコットランド人の陸軍大佐、ピーター・リンゼイ氏(故人)が、1936年にこの地方を訪れ、スキーリゾート地の開発を思い立ったとある。そして、村の恩人ともいうべきリンゼイ氏とトム・ホール氏は非常に親しい友人だったのだ。人口約千三百人の小村であるメリベルにおいて、トム・ホール氏の影響力は相当なものと推察できる。
 皇太子はこの冬、クリスマス・イブの前日、12月23日にメリベル入りした。
 約十日間の滞在中、地元の山岳ガイド兼スキー教師であるレイノウル・ペリュー氏が、皇太子のスキーガイドをつとめた。
 その人懐っこい笑顔のペリュー氏が語る。
「プリンスのスキーの腕前は相当なものですよ。上級コースの『モン・ド・ラ・シャドル』や『コート・ブリュンヌ』を平気で滑っていましたから。日本人のボディガードの人は、プリンスほど上手じゃないんで、小屋で待機してもらっていたくらいです。
 ほとんど毎日、午前九時頃から滑りだして、途中、午後一時に昼食。その後は、夕方の四時半頃まで滑るという日程でした。
 スキーをしている時のプリンスは、とても楽しそうで、自由を満喫している様子。何かの折に“もう、日本ではこんな自由はないだろう”といったことが、いまでも強烈な印象として残っています」
 さて、皇太子がメリベル入りした前日の22日、日本でも興味深い出来事が起こっている。
 東宮御所の記者会見室――。
 天皇(当時の皇太子)は、12月23日の誕生日を前に会見に臨み、皇太子の結婚問題について、
「やはり早いほうがいいでしょうね」
 と発言している。しかも、これに先立つ10月18日美智子皇后はやはり五十歳の誕生日を前に会見。皇太子の結婚時期について、
「私は、あまり遅くないほうがいいと思っています」
 と答えている。皇太子がメリビル(注:原文ママ)入りした前日の天皇の発言は、この皇后発言をバックアップするかのようになされているのだ。こうした時期の一致を、はたして偶然の一致としてかたづけられるものだろうか。
 再び、メリベル――。ペリュー氏が語る。
「メリベルのクリスマス・イブは別世界のように美しいんです。夜、日が暮れると地元のスキー教師達が松明を手に、列をなし、ゲレンデをゆっくり滑り降りてくる。その炎の列は、雪面に反射し、幻想的でロマンチックな光景を作ります。
 恐らくプリンスも、その光景を見ていたと思うよ」
 はたして皇太子は、ひとりでこの光景を眺めていたのか。ここまで何事もフランクに語ってくれていたペリュー氏だが、質問が同伴していたという日本人女性に及ぶと、急に口が重くなる。
「女性は見ませんでしたね……。僕が、(トム・ホール氏の)山荘にいるあいだはクリスマスツリーの後ろに隠れていたのかもしれないけどね」
 わかれ際ペリュー氏は、
「皇太子の日程を記したノートがあるので、あとでスケジュールを教えてあげますよ」
 ということだった。しかし、翌日電話すると、「ノートはみあたらない」という返事が返ってきた。
 女性不在の証言に失望するより、その対応の不自然さが気になったのだが、メリベル村長や観光課長の態度には、もっと不自然なものが感じられた。
 当初、パリから、メリベル村観光課長のジャン・マリー・ショフェル氏に、電話で取材申し込みをしたところ、ショフェル氏は驚くほど好意的な態度で接してくれていた。トム・ホールの山荘も見たいとの要求に対しても「なかも見せてあげられるでしょう」というほどだった。
 しかし、実際にメリベルを訪れた時、ショフェル氏に電話の時のような元気がない。どことなく浮かぬ顔で、
「トム・ホールさんに電話したんですが、山荘の中はちょっと……」
 というのだ。
 村長モーリス・フロン氏になると、緊張しきっている。女性のことを質問すると、言下に否定する。
「いや、来ていません。プリンスは一人できました」
 有無を言わさぬ強い口調である。そして、口を真一文字に閉じ、それ以上話そうとしない。
 横から観光課長のショフェル氏が、言葉を継いでいう。
「メリベルには、いろんな有名人がきます。それは、この村が静かで、誰からも、特にプレスから干渉されないところだからです。私は、プリンスの一行に若い女性がいたかどうかは知りません。トム・ホールさんも電話では、女性の話はしませんでしたから……。いたかもしれないし、いなかったかもしれない。メリベルは、すべての可能性があるリゾートなんです」
公式会見はいっさいなし
 そこで今度は、12月の旅行に先立つ“9月のプライベート旅行”を追ってみることにした。
 前述したとおり、日本では9月の旅行を知るものは少ない。日本で得た証言も“アルザス地方に行っている”というだけのもの。これだけでは雲をつかむような話でしかない。
 一旦、パリに戻り、フランスの地方新聞を調べてみる。
 フランス国立図書館ベルサイユ別館で、二つの新聞を見つけることができた。ともに84年9月13日付の紙面で、皇太子のプライベート旅行を報じている。
 ひとつは『デルミエール・ヌーベル・デ・アルザス』紙。
「……裕仁の孫であるプリンスが、アルザスを訪れた。プリンスは、公式にはいかなる人にも会わず、また会うことも受け入れなかった。……旅行は厳密にプライベートなものに止められたが、唯一CAHR社のクライン支配人と県(オーラン県)の秘密室長がプリンスの案内役をつとめた。
 いかにプライベートなものであったかが強調されている。そして、もうひとつの『アルザス』紙には、旅行の日程が報じられていた。
「……徳仁殿下は、三台の自動車で旅行。火曜(9月11日)の夜は、リボービル市の『クロ・パンサン』ホテルに宿泊。夕食は『オーベルジュ・ド・リル』でとった。……(そして翌日は)ウンテルリンデン美術館を訪ね、館長のヘック氏に挨拶。その後、コルマールの古い町並みを見学した」
 確かに、関係者から得た証言どおり皇太子は9月のフランスをプライベート旅行していた。
 この夏、一年二か月ぶりに英国から日本へ里帰りした皇太子は、たった十日間の滞在ののち、21日には再び英国にもどる。そして、9月、フランスにやってきていたのだ。
 これまでの情報と重ねあわせると、9月の旅行日程の輪郭も浮かび上がってきた。フランス入りした皇太子は、パリからドイツ国境に近いアルザス地方に飛び、有数のワイン畑が連なるアルザス・ワインルートをリボービル、コルマールと訪ねたあと、逆にパリを目指す。そして、ロレーヌ地方のリベルダン、シャンパーニュ地方のランス、エペルネーなどを訪問しながらパリに帰ったようだ。

「フランス人は女性を間違わない」
 皇太子が宿泊したホテル、あるいはレストランを、知りえた限り訪ねてみた。
 まず、アルザス地方のリボービル市のホテルとレストラン。
●ホテル『クロ・サン・バンカン』。9月11日、皇太子一行が宿泊。
 オーナーのシャポタン氏は、
「一晩だけだからね、あんまり覚えていないよ」
 と、機先を制したうえで、こう語る。
「一行に若い女性はいなかったと思う。少なくとも私は見ていないし、記憶もない。宿帳によると、皇太子一行は七部屋とって、六人の日本人が泊まったことになっている。一部屋はフランスのポリス用ですね。その女性の件だがね、間違っても私がいったなんて書かないでくださいよ」
●レストラン『オーベルジュ・ド・リル』。9月11日の夕食をここでとった。
 オーナー兼シェフのポール・エーペルラン氏が語る。
「あの日は、店の休日(火曜日)にあたっていたんですが、プリンスが来られるというんで特別に開けました。確か一行は八人だったと思いますが、女性はいなかったと思いますよ」
 ここでもまた、メリベルと同じ“厚いカーテン”の存在を感じることとなった。どこか対応がすっきりしないのだ。
 当然のこととして、皇太子の一行は、女性と一緒のシーンを目撃されないよう、相当に神経を使ってきたとも考えられる。恐らく人目につきそうなところは別行動をとったのだろう。また、それぞれの訪問先で、口外しないようにクギをさすことも忘れなかったのではないだろうか。
 だが“若い日本人女性”は、確かに皇太子は(注:原文ママ)一行に加わっていたのである。
 その女性を、アルザス平野の中心部に位置するコルマール市で確認することができた。ここは、16~17世紀の木造建築がそのまま保存され、中世の雰囲気に包まれた美しい町である。また、三年後にEC市場統合がなされた時、議会が置かれるストラスブールに近いこともあって、日本の企業進出もこのところ盛んだ。
 皇太子の一行が、9月12日に宿泊したホテル『ブリストル』のオーナーであり、同市の副市長でもあるリシャール・リエム氏が、ウインクしてこう語った。
「うん、非常にきれいな女性がいましたよ。女性が何人いたかまでは覚えてないけど、一人きれいな人がいたことは間違いない。黒髪の、魅力的な瞳の人でしたよ。そんなに大きい人じゃなかったけれど、プリンスより大きいといった印象でした。プリンスが発つ朝、挨拶したんですが、その時、一緒にいました」
 リエム氏に、これまでお妃候補と騒がれた女性十人の写真を見せ、この中に五年前目撃した女性がいるかを訊ねた。リエム氏は、十枚の日本人女性の写真のなかから、迷うことなく一枚の写真を抜き取って、
「この人です。当時は、もう少し髪が長かったと思いますが、大丈夫。フランス人は女性の顔を絶対に間違わないから」
 といって、再びウインクをするのだ。
 その写真はまぎれもなく小和田雅子さんのものだった。ちなみに皇太子の身長は百六十三センチ、小和田さんは百六十四センチといわれる。「女性のほうがやや高かった」という印象とも一致している。
 そして何よりも日本でのある関係者の証言と、ピッタリ一致したのだ。
 ちなみに84年という年は、フランスがアメリカに自由の女神を送ってちょうど百年目。そして、コルマール市は、自由の女神を創造した彫刻家、バルトルディの生地でもある。当時、ハーバード大学に留学中の小和田さんは、「自由なるアメリカ」と深い関わりのあるアルザスの小都市で、どんな人生を想い浮かべたのだろうか。
 
公約の30歳まであと3ヶ月
 これまでの常識では、皇太子と小和田さんの出会いは、87年4月上旬の日英パーティが最初とされていた(注:なお婚約時期に二人の最初の出会いと認定されたのは1986年10月18日スペインのエレナ王女訪日歓迎レセプションパーティである。小和田雅子は事前に用意された名簿に名前がなく、手書きで書き加えての急遽参加だったと複数書籍が一致して記述している)。そして二度目が同年4月下旬、高円宮邸でのパーティ。その後は東宮御所に招かれるなど、五回以上会っていたといわれてきた。
 そして最有力候補に挙げられていたが、昨年7月、英国留学に旅発ったことで、お妃候補から外れたとの見方もあった。
 だが、今回、関係者からもたらされた証言、そしてフランスでの目撃証言などによって、これまでの通説はくつがえされたといえよう。皇太子と小和田さんは、ジャーナリズムが話題にする三年も前から知り合っていたのである。しかも二度にわたる極秘旅行――。
 英国留学によってお妃候補から外れたと考えるのはいささか早計ではないか。“前提”が変われば、そこから導き出される結論が変わることはいうまでもない。小和田さんは、皇太子妃として、依然、最有力なのではないか。
 二週間にわたるフランス取材でつかんだ極秘旅行の事実と“小和田有力”の感触に、宮内庁はどう答えるのか。藤森昭一長官への取材申し込みに対して、宮内庁総務課が代わってこう答えた。
「長官は、自分の知らないことについて、取材はお受けできないと申しております。だれか代わって答えられる人間? そういう人間は思いあたりませんし、私もこのことについては何も申し上げられません」
 一切ノーコメントで押し通すのだが、代わってある霞会会員(旧皇族、華族で構成する社団法人。正式には『霞会館会員』)がこう語る。
「よくお調べになりましたね。皇太子殿下が小和田さんと旅行されたのは事実です。天皇、皇后両陛下はマスコミの監視が比較的ゆるい留学期間中に皇太子殿下のお妃を決めたいとのお考えでした。しかも、一方的に決めるのではなく、本人同士が十分に意志を確かめあったうえで決めてほしいと考えておられた。だから、青年男女がお互いをよく知り合う場としてフランスが選ばれたんです。旅行は確かに二度。9月と12月になされています」
 天皇、皇后のお妃選びは、綿密な計画に従って、順調に進むかに見えた。しかし、昭和天皇の発病と崩御が、そのスケジュールに大幅な変更を余儀なくさせたという。
 そしてこの時期とオーバーラップするかたちで小和田さんは英国に留学している。
 その結果、いま、皇族の一部の人が猛烈に巻き返しに出はじめている。
 再び霞会会員が語る。
「二代続けて、民間からお妃を迎えるということになれば、皇室の伝統が失われるというんですね。で、なんだかんだといって騒いでいる。しかし、皇太子殿下は、そんな雑音にまどわされないで、かつて天皇陛下が美智子皇后陛下に“柳行李一つで来てほしい”といったように強い意志で小和田さんへの気持ちを伝えて欲しいですね。
 これからの皇室にとっても、皇太子殿下にとっても、小和田さんのような美しくて、国際感覚がある心やさしい人が必要なんです」
 皇太子が思いを抱く、当の小和田雅子さんは、現在英国のオックスフォード大学で国際関係論を学ぶ毎日。そして、父親の恒氏は、OECD大使として、パリの日本政府代表部に勤務中だ。
 “アルザスの恋”のゆくえを、留守宅を守る母方の祖母、江頭寿々子さんにたずねると、インターホン越しに、
「一度もそんなこと聞いたことございません。私が聞いているところでは絶対に、そんなことはございませんよ」
 と言下に否定された。
 皇太子が結婚の時期として“公約”した三十歳の誕生日が訪れるのは来年の2月。そして小和田さんが二年間の留学を終えて帰国するのは、その年の秋の予定である――。

『皇室・家族論』芹沢俊介、洋泉社(1993/8/1)“岩瀬達哉氏が言うようにもし同行が事実だとすれば、これも岩瀬さんが書いていることですけれど、雅子さんの行動は「かまとと」的としか評しようがないですけれどね。”編集

『皇室・家族論』芹沢俊介著、洋泉社(1993/8/1)
p.112より引用
■本当の?出会い
 その後は、初対面のことや再会の頃の話になるんです。二人の初対面は昭和六一年、一九八六年一〇月、スペインのエレナ王女が来日したときの東宮御所でのレセプションだというふうに言っているんです。実はこれについて「現代」(九三年三月号)に岩瀬達哉さんが「小和田家の娘」という文章を書いています。この文章で公式には出会いは、スペイン・エレナ王女の歓迎お茶会の席だというふうに言っているけれども、本当のところはその三、四年前に会っているんだと岩瀬さんは書いているんです。
 三、四年前というのは、彼女がハーバード大学の学生だった頃です。彼女が日本へ一時帰国した折に赤坂御所で徳仁皇太子とテニスをしたというのが最初だというふうに言っているんです。もう一つおもしろいことを書いています。これは他の週刊誌にも出ていますが、岩瀬さんのオリジナル情報だと思うんです。八四年に徳仁皇太子がプライベートのヨーロッパ旅行に行っていたときに、フランスのアルザス地方、ドイツ国境に近いコルマールという小さな都市を訪れているというんです。実はその旅行に女性を伴っていた。そしてそれが雅子さんだという話です。岩瀬さんは、このことをコルマールの副市長であり、かつ皇太子が泊まった高級ホテル、ブリストル・ホテルのオーナーでもあるリチャード・リエムという人に確認していると言うんです。リエムさんは「黒髪で魅力的な瞳の女性」と言っています。それで写真を十何枚か見せたら、パッとこの人だと指したというんですね、そういう話が実はあるんです。
 八四年九月のヨーロッパ・プライベート旅行ですから、そうだとすると八六年の一〇月よりもさらに二年遡るということになってしまいますね。まあ、どっちが本当なのかというのは、僕らには分からないことなんですが、とりあえず記者会見で公式には八六年のスペイン・エレナ王女のレセプションだというふうに皇太子は言っていますので、それを一応信じる他ないだろうと思います。ただし岩瀬達哉氏が言うようにもし同行が事実だとすれば、これも岩瀬さんが書いていることですけれど、雅子さんの行動は「かまとと」的としか評しようがないですけれどね。

1984年徳仁&小和田雅子コルマールでの出会いと、抱き合わせで掲載されている1989年春「川嶋紀子さんが礼宮に会うため渡英した」デマ記事:『女性自身』1989/7/18号<礼宮さま『テームズ川の恋』、皇太子さま『アルザスの恋』>編集

pp.258-259より引用
「最近の皇太子さまは、週1回、学習院の大学院の通われるほかは、赤坂御所でパソコンに熱中されていると聞いています。これはご専門の中世史の資料づくりをなさるためでいろんなテクニックをマスターなさったようですよ」(宮内庁記者A氏)
 すでに“ご結婚”を前提として、赤坂東邸での独立生活も決定している皇太子さま。
 当然、お妃選考も進展しているはずだが、その渦中で有力候補者の一人といわれている小和田雅子さん(26)との『アルザスの恋』が報道されて話題になっている。
 一般には、皇太子さまと小和田さんの出会いは2年前(補足:1986年)。日英協会のパーティの席上。いらい雅子さんは東宮御所に招かれて、5回以上は皇太子さまとお会いになっている・・・・と伝えられていたが。実は最初の出会いは5年前(補足:1984年)にあったというのだ。
 当時、皇太子さまは英オックスフォード大学留学中。
 9月にフランスのアルザス地方をご旅行になったが、お泊りになったホテル“ブリストル”のオーナーは
「黒髪の魅力的な瞳の女性がご一緒」
 と証言。お妃候補者10人の写真のなかから
「この人です」
 と選び出したのが、小和田雅子さんだったという
 皇太子さまは12月にはアルザスのメリベルにスキー旅行なさって、クリスマスから新年にかけての印象深い数日を過ごされたが、そのときも雅子さんが同行していたというのだ。現在の雅子さんは、外務省の研修生としてオックスフォード大に留学中。
 雅子さんに近い友人は、
「5年前といえば、彼女はまだボストンにいるころで、ハーバード大学卒業を前に忙しいときでした。9月と12月にヨーロッパに行く暇はなかったはずですが・・・・」
 と首をひねる。
 しかし、いま私たちがあらためて思い起こすのは、デートの真偽よりも、皇太子さまが公人であるだけでなく、青春の情熱と自由な意思を持った一人の男性でもあるということだ。
 アルザスの恋。開かれた皇室を担っていかれる皇太子さまのためには、むしろ望ましいロマンスといえるのではないだろうか。
 
「結婚が早い方がイイと・・」
 皇太子さまだけでなく、弟宮・礼宮さまにもまた『テームズ川の恋』が、好意的なニュアンスをもって囁かれている。
 ロンドンのオックスフォード大学に留学中の礼宮さまのもとへ、春休みのスケジュールを合わせるかのように、川嶋紀子さん(22)が渡英したことが確認されている
 学習院大では、礼宮さまの後輩で、礼宮さまが会長をつとめた“自然文化研究会”の会員として、かねてから親しい交際を噂されていた紀子さん。
 学習院大の級友によれば
「川嶋さんは3月20日の卒業式にも謝恩会に出席しないで出発していきました」

下線部が女性自身によるデマ記述である。

 学習院の大学院に進んだ紀子さんを、キャンパスに訪れると、
「私はまだ学生ですので、当分はまだこちらで、勉強のほうに励みたいと思っておりますので・・・・」
 と礼宮さまとの交際については明言をさける。
 ――お手紙とか電話のやりとりは?
「ええ。それもちょっとお答えできないんです」
 お父さんは学習院大教授。
 キャンパスでは明るい人気者だが、休日でも図書館にこもっているというしっかりしたタイプの紀子さん。
 皇后・美智子さまは、すでに5年前、皇太子さまがアルザス地方をご旅行なさった直後、“ご結婚”について、
「私は、あまり遅くないほうがいいと思っています」
 ごご発言になった。
 ご自身は“軽井沢の恋”と天皇(当時の皇太子)の熱烈なラブコールをご経験なさっている。それだけに、お子さま方の青春にはご理解を持ちながらも、皇后としてのお立場もあり、複雑な心境におられるともいわれている。
 公的には皇太子さまのご結婚は目前の急務。
 両陛下がそうであったように『アルザスの恋』と『テームズ川の恋』が実ったら、それはすばらしいことではないだろうか。

女性自身のデマ記事は他にも:女性自身 1989年4月18日号<本誌独占スクープ 美智子さまご心痛!礼宮(23)の『結婚と反抗!』噂の女性・川嶋紀子さん(22)は急遽、殿下の留学先ロンドンへ!>編集

女性自身 1989年4月18日号<本誌独占スクープ 美智子さまご心痛!礼宮(23)の『結婚と反抗!』噂の女性・川嶋紀子さん(22)は急遽、殿下の留学先ロンドンへ!>表紙


上記川嶋紀子さんについてのデマに対する反証記事その1:いばらき 1989年9月12日 恩師学友が語るお二人編集

△今春ご結婚を決意
――ご結婚の決意を固められたのはいつごろと…。
緒方  推測ですが、今年の春に「川嶋さんがロンドンまで後を追って行った」という報道があったころではないかと思います。殿下に国際電話で、こういう記事が出ていましたとお話ししましたら「事実無根で、ひどいね」って。あの時は川嶋さんはインドネシアでしたから
柴崎  紀子さんはそういうことを口になさる方ではないんですね。ただ、さっきの報道の時期に「こういう報道が出てしまったのは残念なことね」「イで始まるのは同じだけれど、私が行ったのは(イギリスでなくて)インドネシアです」「事実と離れたことが書かれてしまうのは悲しい」とお話しなさっていて…。お気持ち分る気がいたしました。
多紀  お二人のなれそめをせんさくすればかえって実像をゆがめられたりするので、あとは何年かして自然に分かるのを待つのがいいと思います。
平野  お二人の出会いとプロポーズの時期、その時のエピソードは十二日の記者会見で礼宮さま、川嶋さんからお話があるとうかがっております。お二人の間の一番大切なエピソードは、川嶋さんが「家族にもまだ話してないのよ」とつい最近おっしゃっていました。

上記川嶋紀子さんについてのデマに対する反証記事その2:『週刊現代』1989年9月30日号 恩師・久保田瑛子学習院女子高等科教諭が明かす 私の教え子・川嶋紀子さんの「青春日記」編集

 川嶋教授とこの会話を交わしたのは、お馬の会の催し(学習院大学馬術部が毎年1月中旬に催す『初乗り会』。川嶋教授は馬術部長)でのこと。昨年か、一昨年のことでございます。
 実は、その前の年でしたか、やはり『初乗り会』で、私は礼宮さまに、そばに川嶋教授がいらっしゃったものですから、
「川嶋教授にはお嬢さまがおいであそばしますけれども、ご存知でいらっしゃいますか?」
 と、伺いました。宮さまは、
「存じております」
 とおおせになりました。その時、青年らしいはじらいを感じました。私は、「(宮さまと紀子さんは)いいお友達でいらっしゃるのだなあ」
 とその時、思いましたよ。
 その後、あからさまには話題にせずにおりましたが、川嶋教授が「疎まれている」
とおっしゃられた時、私はご家族の苦悩を拝察した思いでございました。
 川嶋家といえば今年の春、インドネシア、フィリピンとご家族旅行にお出かけになりましたが、それが一部の報道では宮さまを追いかけてイギリスに行かれたようなことになっています。でも、あれは、まったくの誤りです。私自身、インドネシアから紀子さんにお便りをいただいていますし、私の教え子の一人も、川嶋家のインドネシア旅行に途中で合流させていただいたのですから

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